本格的に降り出した雨に、人々は次々と傘を差す。コンクリートは雨を吸収せず、ただ音を立てるが、そんな事は誰も気にもしない。誰かが泣いていたって、足を止める人はいない。前を見て、流されるように歩いていくばかりだ。
その中で美鈴は傘を差す事もせず、店に入る事も出来ず、降り注ぐ雨に身を任せていた。未だ鳴り続ける携帯には、気付かないフリをして。

「…………ッ、」

何もかもがぐちゃぐちゃで、もうどうしたらいいのか、分からなかった。

どうして、こうなってしまうのだろう。愛した人が兄だったという、たったそれだけのシンプルな事なのに。物事は複雑に絡み合い、元々は何だったのかすら分からなくさせた。
少女が今の今まで押し込め続けた思いは、小さなものではない。長い年月の間隠れていた不安が徐々に表に出てくるようになっても、足元に亀裂が入ってもそれでも、ずっと見ないフリを続けたのだから。

「何やってるのかな、私……」

彼と自分の世界は違う。そんな分かりきった事実が、ひどく悲しい。

隔てるものが何もない今、冷たい雨はひたすらに突き刺さり、体温を奪っていく。戻る事は出来ない。進む事も出来ない。もう、どこにも。
美鈴が足を止めてしまった時、ふと雨音が途切れた。底知れぬ暗闇に、光が差し込む。けれどのその光は――――

「……え?」
「どしたの、びしょ濡れで」

前髪から雫が零れ落ち、その事だけが過ぎていく時間を実感させた。
視界に映るのは、心配そうに、何故そんな格好でいるのか分からないといったような表情を浮かべている兄だった。彼が持っていた傘のほとんどは自分の上にあり、雨音が弾かれていく。
既に手遅れな程濡れていた美鈴にはそう意味がなかったが、それでもかざみは傘を差す事をやめなかった。

「に、い、さま……」
「そのままじゃ寒いだろうから、家おいで」
「え、あ……」

彼の家の方向に歩いてきていた、のか。いくら無意識の行動とはいえ、一体自分は何をやっているのだろう。
美鈴が軽く頷くと、かざみは傘をほとんど美鈴の方に差したまま歩き出す。ゆっくりとしか歩こうとしない美鈴のペースに合わせて、彼も歩幅を狭くしていた。いつもと変わらない優しさが、今は痛い。
雨と涙が混じってくれて、本当によかったと思うのに。気付いて欲しいだなんて、なんてわがまま。
ぐるぐるぐるぐると、出口のない、行き場の見つからない思いだけがひたすらに巡る。行けば、彼に会ってしまう。この人を変えた原因である人に、出会ってしまう。会いたくなど、ない。会わせたくも、なかった。

光さえ消えていく闇の中、それでもただ一つ、失わない思い。

「……美鈴? 風邪ひく……」
「かざみさん」

途中で立ち止まった美鈴を心配して、彼は振り返った。振り返って、くれた。しかしその呼び方を聞くと、彼は表情を変えた。困惑するのも無理はない、今までしなかった呼び方だったのだから。
本当はずっと、こう呼びたかった。心から、愛おしいひと。

「――――美鈴?」
「好きです」

いつもそう表情を変えない人の目が、見開かれる。悲しいくらい予想通りの、反応だった。それでも思いは止まらず、次から次へと、言葉が溢れていく。

「貴方が、好きです。ずっとずっと、本当はずっと好きだった。貴方の、優しさや厳しさが本当に好きなんです……っ!」

雨と涙が、混じる。今の自分はどんな表情をしているのだろう。それはそれは酷い顔をしているのではないだろうか。そこまで言った後、彼が動きを止めたのが、確かに分かった。

「え……」
「……貴方は、きっと気付いてなかったでしょうけどね」

思わず、苦笑いが零れる。彼の鈍さは本当に凄いと、美鈴は思う。いくら悟られないようにしていたとはいえ、長い付き合いだというのに。ずっと、傍にいたというのに。
自分の言葉は確実に彼を傷つけるだろう事くらい、美鈴も分かっていた。彼は「家族」として、「妹」として、本当に大切に思っていてくれた。いつだって、守ろうとしてくれていた。血が繋がっていないために遠慮があるのか、表に出そうとはしなかったけれど。
気付かずにそんな態度を取り続けた自分自身を、彼は確実に責めるだろう。そういう人だと知っていたから、美鈴は頑なに言おうとはしなかったのだから。
それすら分かっていても、もう。ごまかすのは止めにしたかった。

「ごめん、オレ今までずっと、」
「謝らないでください。そうさせたのは私なんです、だから謝らないで……」
「いやでもオレずっと、酷いことしてたんだと思う。ごめん、謝って済む問題じゃないけど、ごめんな」
「それは何の、謝罪ですか。気付かなかったことへの、ですか。それとも答えられないことの、ですか……」

彼の言葉が、詰まる。こうなる事など、最初から知っていた。彼が言いたい事など、分かっていたはずなのに。なのに胸は痛むばかりで、視界が歪んで彼の顔さえまともに見られない。

「ごめん、オレは……」
「だから、言いたくなんてなかったのに……っ! 貴方は私を妹としか見てくれないんです、これから先もずっとっ!」

雨に掻き消されてしまいそうな程にか細い、悲痛な涙声が、その場に響く。こんなものは、やつあたりだ。現実を受け入れられない自分の、悪あがきでしかない。美鈴は右手を握り締めるが、ほとんど力が入らなかった。
彼が困っているのが、痛いほどに伝わってくる。こんな結末を、望んだわけではなかったのに。こんな形での決着を、願っていたわけではなかったのよ。

「……ごめん」
「もう、ききあきまし、た」
「それでもやっぱり、ごめん。オレは美鈴のこと妹としか思えないよ」
「……知っています」
「美鈴はもうオレのこと兄とも思えないかもしれない。でも美鈴は大事な、大事な存在だから。ずっと、大事にしていきたい。傷つけてごめん、気付いてやれなくてごめん。そんなにまで追い詰めて、ごめん」
「もう謝らないで、ください……」
「オレ、小さい頃美鈴に酷い態度取ってた。何も考えたくなくて、返事もしなかった。でも、妹が出来たこと、嬉しかったんだ」
「え?」

きっと彼は忘れているだろうと思っていた、幼い日の出来事。
彼は、彼の両親が亡くなってからの数年の記憶が曖昧になってしまっていた。それほどまでに、当時の少年にとって悲惨な事故だったのだ。だからきっと自分との事も覚えてはいないのだろうと、美鈴はそう思っていたのだけれど。

「オレがそんなんだから、美鈴はずっと色々我慢してたんだと思う。ありえないこと言ってるかもしれないけど、血の繋がりもないけど。オレは、ずっと美鈴の兄でいたい。兄妹でいることすら、今のオレは許されないだろうか」

彼なりの、答えだったのだろう。嘘偽りなんてないだろうどこまでも一生懸命な言葉は、すーっと胸の中で溶けていく。

「ってこれじゃオレ、自分のことばっか……。そういうんじゃなくて、」
「貴方が、一生懸命出してくれた答え、ですよね」

ねえ、私の思いはどれだけ貴方に伝わったでしょうか。言葉では言い表せないほど、本当に貴方のことが好きでした。心から、愛していました。傍にいられるだけで、幸せでした。閉じ込めていた思いを言葉にしたことで、ようやく少し変われそうな気がするよ。

美鈴は涙でぐちゃぐちゃになってしまっている顔をあげ、また泣きそうになりがらも精一杯の笑みを作った。

「――――――好きでいさせてくれてありがとう、兄様」

**

「美鈴っ!? 何でそんなずぶ濡れ……!」
「私から逃げたのに呼び出して、ごめんね」
「あたしこそ、さっきは言いすぎてごめん。無神経だった……」
「私、振られちゃったよ」
「え?」
「妹としか、見られないって。本当に予想通りの回答してくれたよ」

どんなに無理に笑おうとしても、上手く笑顔を作れなかった。どれだけ拭っても次から次へと涙が溢れて、消える事を知らない。いつまで経っても、雨は止まない。
そうしていたらふいに彼女に抱きしめられて、自分以外の体温が伝わってきた。彼女の体も随分と冷えていて、きっとずっと探していてくれたのだろう。何も言わず抱きしめてくれた彼女の優しさが、とても暖かかった。

「好きだったんだけどなあ。誰より好きだったんだけどなあ。ほんとうに、好きだったのにな……!」
「うん」
「ばか、兄様のばかっ! 優しさなんて、いらなかったのに……っ!」
「……うん」
「大好きだったんだよ……っ!!」

少し分かりにくい優しさも、自分に厳しいところも、それなのにどこか脆いところも、全部好きだった。最後の最後にまで突きつけられた残酷な優しさも、やっぱり好きになったあの人のものだった。
今だけは、貴方を想って泣くことを許してください。雨が涙を覆い隠してくれる、今だけは。

ちはやは、泣き止むまでずっと抱きしめてくれた。お互い酷い顔をしてて、明日は目が腫れちゃうね、なんて笑いあって。いつも通りの調子でカラオケに行って歌おうか、なんて言うものだから余計に泣いてしまって、結局カラオケでも泣いてしまったのだけど、彼女は最後まで付き合ってくれた。

カラオケから出た時、外には虹が咲いていた。明日も頑張ろう、なんて。どこか清々しい気分だった。

さよならの代わりに精一杯の愛を

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