雨は好きですか。
突然そう尋ねられて、真っ直ぐに好きだと答える人はどれだけいるのだろう。

Blue Rose
思い出の日はいつだって雨だった

「……今日は大雨ね」

ざあざあと鳴り止まない雨音をベッドの上で聞きながら、美鈴は遠くにある窓を眺める。広すぎる部屋には趣味の良い家具が並んでおり、どこにも埃一つ見当たらない。
サイドテーブルの上に読みかけの本を置き、疲れたように息を吐き出した。いくら暇だったからといって、普段はあまり読まない恋愛小説を手に取ったのも、そもそも本を読もうとした事にも問題があったのだ。

本の内容は、一言で言ってしまうなら「王道恋愛ファンタジー」だった。姫君と彼女を守る騎士との、切ない恋物語である。雨の降る夜に二人は駆け落ちし、また雨の降る日に連れ戻され、王によって引き離されてしまう。だがその日から姫君の笑顔が消え、彼女は毎日涙を流す日々を送る。見かねた王により決められた婚約者が実は騎士であり、二人はようやく再会を果たす。彼女を諦めきれなかった騎士は恥も何もかもを捨てて知人を頼り、細い伝手をなんとか辿って跡継ぎのいなかった公爵家の養子に入っていたのである。
雨が降る中、騎士は彼女にどうかもう一度笑ってほしい、と願い出る。彼女は快く了承し、七色に輝く虹を背にして彼に抱きついた。そして物語はハッピーエンドを迎える……前に、美鈴は読むのをやめてしまった。もう充分だと思ったからだ。

(……あたまいたい)
そういえば、自分とあの人が出会った日も雨だった。彼が家を出て行った日も、同じような天気だったような覚えがある。始まりも終わりもとは、自分は雨女なのだろうか。そんな事はないと思うのだけど。そう思って記憶を遡ってみるが、彼と過ごした日々の背景のほとんどはやはり一緒だった。それならば彼が雨男なのか、それとも二人の相性を示しているのか。――現実は物語のようにやさしくはない。一度降り出した雨はそう簡単に止みはしない。そんな当たり前の事を思い知らされるのがいやになってくる。雨の日は感傷的になりやすいとよく言われるが、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。そんな事を考えていると、こんこん、と規則正しいリズムでノックされた。

「どうぞ」

勧めれば、礼儀正しく頭を下げてから一人の女性が入ってくる。

「失礼致します、お嬢様。ご気分はいかがですか?」

美鈴よりいくつか年上の彼女は、ショートカットの髪がよく似合う物腰の柔らかい女性だ。彼女が着ている白と黒を基調とした服は要所にフリルがあしらってあり、可愛らしい印象を抱かせる。名家、早瀬家に雇われているメイドの一人だった。

「大分楽になりましたよ。ありがとう」
「本当ですか? よかったです。でもお嬢様、まだ油断は禁物ですよ」
「ええ。体調管理もできないなんて……情けないわ」

昨日から高熱が続き、ベッドに伏せる日々が続いていた。今こうして会話出来るまでに回復したのは、薬が効いているからに他ならない。

「きっと疲れが出たんですよ。何か、食べたいものとかありませんか? ご気分がよろしいのでしたら林檎でも……」
「ううん……食欲はあんまりないかな」
「そうですか……。氷、変えておきますね」

残念そうな彼女の顔を見て、ああ言葉を間違ったかもしれないと美鈴は軽く後悔する。だが、訂正する気力は湧かなかった。目の前に食べ物を差し出されたところで、一口も入る気はしなかったのだ。

「あら、ご本を読まれていたんですね」

サイドテーブルに置かれたそれに気付いたようで、どこか意外そうに零される。美鈴にしては珍しく、恋愛小説であったせいだろう。

「最近有名な方だと聞いて、買ってみたんです」
「実はわたしも読んでいるところなんですよ。あ、ネタバレはご遠慮くださいね! ……騎士とはちゃんと結ばれました?」

ネタバレは聞きたくないといいつつ、興味深そうに尋ねてしまうあたり先が気になって仕方ないのだろう。なんだか可愛らしくて、美鈴にも自然と笑みが浮かぶ。

「ふふ、自分で確かめるべきよ。大丈夫、きっと貴方の期待を裏切らない出来だから」
「それは益々楽しみです。つい感情移入してしまって中々進まなくて……って申し訳ありません」
「ううん、いいのよ」

迷路に迷い込んでしまう前に貴方が来てくれたのは、少し有難かったから。その言葉は飲み込んで、ただ微笑み返す。

「では、わたしは失礼致します。完全に熱が下がるまで、安静になさってくださいね。何かご用がありましたらいつでもお呼びください」
「ええ、ありがとう」

女性は美鈴に挨拶すると、丁寧な動作で部屋から出て行く。メイドとして完璧な動きだったが、美鈴も彼女に負けず劣らず上品な笑みを作っていた。
一人になると、ずきずきと痛みが増していく。ああもう寝てしまおう、それがいい。そうして美鈴は瞳を閉じた。

ぱら、ぱら。どこかで聞いたような音が、耳を通り抜けていく。そして段々と意識が覚醒してくる。一体自分は、どれだけ寝ていたのだろうか。時計を見ようと目を開ければ、自分以外に誰もいないはずの部屋に誰かの影が見えた。

「兄様……っ!?」

そこにいたのは、寝る前までずっと頭に思い描いていた人だった。

「あ、起きたか。おはよう」

彼はふわりと笑って、読んでいた本を閉じる。どうやら、先程の音は彼が本をめくっていた音だったらしい。

「あの……どうして兄様がこちらに? あ、その本……」
「メイドさんに電話もらったんだ。美鈴が高熱出して寝込んでるって。あと、本はそこに置いてあったの借りた。栞の位置は変えてないから大丈夫」

頭が追いつかないでいる美鈴に、彼は分かりやすく説明する。なんとか現状を把握した美鈴は、確かめるように彼の顔をじっくりと見た。
日本人離れした灰色の髪、マリンブルーの瞳、透けるように白い肌。右に一つ、左に四つという数の多いピアスも、彼によく似合っている。本来は中性的な顔立ちなのだが線の細さから女顔と言われる回数の方が多いらしく、以前愚痴っていたのを聞いた事があった。女性が嫉妬するほど綺麗なこの男性は、早瀬 かざみ。今は一人暮らししている、義理の兄である。

「あのもしかして、そのために帰って来てくださったんですか?」
「うん、父さんも母さんもいないって言うし。オレあんま帰って来れてないから、今日くらいはと思って」

別にそんな事は珍しくもなんともないというのに、気を遣ってくれたのだろう。両親が多忙なのは、彼だってよく知っているはずだからだ。子どもが可愛くないわけではなく、単純にとても忙しい人たちなのである。それでも決して自分をないがしろにはしなかったし、誕生日にはいつも欠かさず傍にいてくれた。目の前にいる兄――――彼が養子に入ってからは、四人一緒に。

「わざわざありがとうございます、兄様」
「ん、わざわざとか言わなくていいのに。林檎でも剥く?」
「そうですね、お願いします」

彼は「ん」と頷いて、メイドから受け取っていたのだろうバスケットに手を伸ばす。そこから林檎を一つ取り出し、綺麗に切り分けていく。 彼は料理という料理は一切出来ない人だが――砂糖と塩を素で間違えたなどの数々の伝説を持つ人である――手先だけは器用だった。するすると林檎を剥いていく彼を、じっと眺める。集中しているのか、彼は気付いていないようだった。

「よし、剥けた。食べられそうか?」

彼がこうして優しくしてくれるようになったのは、いつからだっただろう。出会ったばかりの頃の彼は心を閉ざして、自分と会話もしてくれなかったのに。

「あら、随分と可愛らしくなってますね」
「好きかなと思って。林檎うさぎ」

耳の大きさも左右ぴったり同じのそれは、とてもかわいらしい。どうしてこの器用さが料理に生かされないのだろうか……芸術方面ではこれでもかというほど発揮されているのに。
お皿の隅に置かれたピックを手に取り、林檎に刺す。……先端にパンダがついたピックだが、一体これは誰の趣味で買われたものなのだろうか。少々疑問を感じながらも、そのまま口に運ぶ。

「あ、おいしい……」
「それはよかった。何も食べてないって聞いてたから」
「兄様も食べませんか?」
「いやオレはいいよ。美鈴が食べきれなかったら食べる」
「流石に全部は食べられませんから、食べちゃってください」
「そ? んじゃオレももらうかな。……あ、美味しい」

噛めば噛むほど口の中に広がる、ほどよい甘み。胃がじんわりと満たされていく気がした。
おそらく、彼に電話をかけたメイドというのは部屋に訪れた彼女と同一だろう。となるとこの果物も、彼女が用意してくれたのかもしれない。どちらにしろ、元気になったらお礼を言わなくては。

「そういえば本、後ちょっとで終わりそうだったけどつまらなかった?」

彼は林檎をしゃくしゃくと食べながら、何気なく尋ねてくる。残り後数ページのところで栞を挟んでいたから、どうしてかと気になったのだろう。

「終わってしまうのは、もったいないと思いまして。そういうことってありませんか?」
「ん、ああ、そっち方面か。そっか、じゃあ面白かったんだ」
「ええ。メイドの女性も続きを気にしていましたしね」

本心は悟られないように、そっと話を逸らす。彼は納得してくれたようだった。
彼と話していると、心のどこかで感じていた虚しさが暖かさで溢れていく。けれど同時に、何かがひび割れていく音もした。

「林檎、本当においしいですね」

それでも今だけは目を逸らして、耳を塞いで、ただ甘えていたかった。例えそれが、限られた時間でも。

外はまだ雨が降っていた。

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