音が、聞こえる。聞き慣れた、どこか切ないメロディーが。

Blue Rose
悲しくも美しい旋律の行方は

「おっはよー、美鈴。もう大丈夫なの?」

「おはよう、ちはや。三日も休んじゃったし、大丈夫だよ」

がやがやと煩い教室で声をかけてきたのは、美鈴の友達である神無崎(かんなざき) ちはや。染められた明るめの茶の髪、意思の強そうな瞳、すらりと伸びた手足が印象的な美人である。

「それならいいけど。しっかし、気をつけなよー。体丈夫なわけじゃないんだからさ」
「大げさだなあ」
「アンタそれ、前にも言ってたよ。毎回講義のノート取ってるあたしに感謝なさいね!」
「本当にありがとう。今回はなにがいい?」
「んー、そーね。駅前にできたっていうパフェ屋さんが気になってるのよねー」
「喜んで奢らせてもらいます」

冗談めかしたやり取りに、二人は顔を見合わせて笑う。ありふれた、一見どこにでもある光景。だが、美鈴にとっては何より大切にしたい大事なものだった。性格も育った環境も、恋愛の仕方さえ違ったが自然と馬が合い、学校では一緒にいる事が多いのである。本音で話せる、数少ない友人の一人だ。

本来、美鈴は決して友達が少ないわけではない。昔から色々な人に慕われたし、嫌われた事もほとんどない。けれど、それだけだ。深い付き合いはしなかったし、しようとは思わなかった。出来るとも思えなかった。――兄を好きになってからは。

「そーいえば、もうすぐ演奏会ね」
「そっか、もうそんな時期だっけ」

スケジュールを思い出し、そろそろ忙しくなるなと考えを巡らせる。

「ま、バイオリンの一人は美鈴で決定かしらねー?」
「もう、結果が出ないとわからないよ。ちはやだってメゾ・ピアノ独唱確実だっていわれてるじゃない」
「まあ、あたしの方は数も少ないしね。けどそんなことは気にせずに目指すつもりよ」

二人が通う学校――それは地元でも有名な音大だ。

美鈴が通う事になったきっかけは、高校時代にある。放課後の音楽室でこっそりピアノを弾いていたところ、ある生徒に見つかったのが発端だった。音楽に興味があるというのは伏せていたのだが、その生徒が友達にでも話したのか噂が広まってしまい、以来ことある毎に演奏を頼まれるようになってしまったのだ。正直なところ不本意であったし、音大に進もうなんて気はなかった。しかしそれでは勿体ない、是非行くべきだと担任に強く勧められ、迷ったあげく家族に相談してみれば全員賛成。それでも美鈴は長く渋っていたが、兄の「オレは美鈴の演奏好きだよ」の一言で通う決意をしたのだった。
その頃兄は既に一人暮らしをしており、彼は誰に相談するでもなく自分で大学を選んでいた。学科は経営学科。両親の会社を、継ぐためだった。

「あーしかし、美鈴のおにーさまの演奏を生で聴いてみたいわ」
「うーん、あのひと基本的に人前で弾くの好きじゃないから……」
「ね、今度こっそり録音してみない? ……ああでもやっぱ生じゃなきゃダメだわ!」
「前に一度コンクールで聴いたことあるって言ってなかった?」
「何年前の話だと思ってんの! あーっもっとしっかり聴いておくべきだったッ」

普段そう熱くなったりはしない彼女だが、本当に悔しそうに語った。まあそれも無理はないかな、と美鈴は思う。身内の贔屓目など抜きにしても、彼の演奏はそれだけ素晴らしかったのだから。

「でもそれ、貴重だと思うよ。あのひと滅多にコンクール出なかったもの」
「らしいわね。当時すごい有名になってたのに全然表に出てこなかったし」

周囲の人間はこうして彼をきちんと評価しているというのに、どうして彼はああだったのだろう、と美鈴は呆れにも似た思いを抱く。
早瀬 かざみという人。彼は完璧に近いと言っても良いほどの才能に恵まれている人物だ。顔は文句なしに良い、頭も良い、運動神経も良い、付け加えるなら性格も悪くはない。手先も器用で、芸術方面においても才能は発揮される。その中でも抜きん出ていたのが、ピアノだった。渋々といった様子で出場したコンクールでは必ずといっていいほど優勝する実力を持っていた。そのため、ちはやの言葉も過大評価でも何でもないのだ。
繊細でいて力強い音は、聴く人を惹きつけて止まない。どれほど周りの人間に褒められようとも、この兄には絶対に適わない現実を美鈴は幼少の頃から悟っていた。

だと、いうのに。
当の本人は自分の才能がどれほど凄いものなのか全く自覚していなかったのが問題だった。謙遜しているのではなく、卑屈なのでもなく、ただ純粋に単純に自分への評価が低かったのだ。今にして思えば、周りからの評価が高すぎて反対にそうなってしまったのかもしれないが。

「美鈴のバイオリン、おにーさまのピアノ、あたしの美声! これだけ揃えばパーフェクトだと思うんだけどなっ」
「自分で自分加えて完璧って言うのもどうかなあと思うけど……」

今でも時々、考える。もしも自分が先にピアノを始めていなかったら。彼だけが弾いていたなら。彼は今も続けていたのだろうか、と。

「そんなこと言っちゃうんだ? このノートどーしよっかなー」
「冗談、冗談。うん、ちはやの歌声は透き通っててきれいだよ」
「まー、棒読み。あたしも美鈴の演奏好きよ」
「――――ありがとう」

彼女が言ったその言葉が本心なのを、美鈴は知っている。そして彼女もまた、美鈴のお礼が心からのものである事を知っていた。
彼女は決して、兄妹を比べたりはしなかった。以前それとなく聞いてみた事があったのだが、「だって別の人間が演奏してるんだから別物でしょ」とあっさりそう返ってきたのは今はまだ記憶にも新しい。

「じゃ、パフェ屋ついでにカラオケでも行こうかしら」
「私病み上がりなんだけどなあ」
「あ、そうだった。じゃあ、あたしの歌声をとくと聞くがいい!」
「えええ……ずっと歌うつもりなの?」
「……流石に喉が危ないね、却下。んじゃパフェ屋のみで」
「うん、わかった」

ちはやは美鈴を誰とも比べない。背後にあるものも気にしない。それは美鈴にとって、救いでもあった。

「ねね、身内に早瀬 かざみって人いない? あたし、彼の演奏のファンなのよ」
長く考えずとも容易に思い出せる、彼女に初めて話しかけられた時の台詞。今にして思えば、近寄り難い雰囲気を出していただろう自分に話しかけるための口実だったのかもしれない。彼のファンというのはかなり本気だったらしいけれど。

音大に通うと決めてからも、ようやく通いだしてからも、いつもどこか憂鬱だった。後ろを振り返りたくなるのに、そこにあるのは真っ黒な迷路。もう二度と迷い込まないようにと必死になって前を見ようとする度、道は狭まっていった。
演奏自体は、幼い頃から好きだった。いつだって、好きだと素直に言える。美鈴の奥底にあるのは、優秀すぎた兄へのコンプレックスや妬みではない。彼が色々なものを諦める事になった原因の一つは自分だと、よく知っていたからだ。

「でもちはやって、そんなに甘いもの好きだっけ」

ピアノで適わないのなら、彼が好きだと言ってくれた音をせめて今より上手く弾けるようになろうと、そう思わせてくれたのは目の前の彼女だ。

「んーそうね、脳が疲れてると特に欲しくなるのよねえ」
「あ、じゃあこれ」

美鈴は鞄からキャンディーを取り出し、彼女の手のひらに乗せる。

「はちみつキャンディ?」
「のど飴に、ってもらったの。でもちょっと甘さが強くてなかなか減らなくって」
「そっか、ありがと。今度あたしも何か持ってくるわ。美鈴が食べたことないような、珍しいヤツ」
「うん、楽しみにしてる」

なんの躊躇も、なんの壁もなく、素で話しかけてきてくれた彼女。彼女が自分にくれたものを、同じように返せているのかは分からない。それでもこの関係をずっと大事にしたいと願う、彼とは違う意味でかけがえのない友人だ。あの頃と変わりない彼女を見て、美鈴はこっそりと微笑んだ。

「パフェ、美味しいといいね」
「めちゃくちゃ美味しいって友達に絶賛されたんだもの、美味しくなかったら訴えてやるわ」

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