悲しいとは決して思わない。今も昔も、世界は幸福で満ち足りているのだから。

Blue Rose
思い出は今も色褪せることなく

「お疲れ様でした」
「お疲れさまー」

(少し遅くなっちゃったし連絡いれないと)
バイトを終え、店から出ると同時に携帯を取り出す。一本だけつけられたストラップが、風で揺れた。以前兄がお土産に、とくれたもので、それ以来携帯を変える度に付け替えている。彼にとっては大した意味もなかったのだろうとわかってはいたけれど、美鈴にとっては大事なものだ。
ふと、道を歩く人が持っている傘が目に留まった。確か今日は降水確率が低かったはずなのだが……どこかで降ったのかもしれない。本格的に降り出す前に帰らなくては、と携帯を操作し、家の番号を表示させる。通話ボタンを押しかけたとき、こちらに向かってくる女性と目が合った。互いにはっきりと姿が認識できるようになると、戸惑うこちらを知ってか知らずでか、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「どうか美鈴も自分が後悔しないように生きてね」

「あ……」

あの日の言葉が蘇り、自分でも無意識のうちに声が漏れる。はっ、と気が付くと押しかけていたボタンから手を離して鞄にしまいこんだ。

「久しぶり、だね、美鈴」

見るからに大人しそうな外見、パステルカラーを好んで着ていた柔らかな服、丁寧にまとめられた長い髪。声をかけてきた彼女は、最後に出会ったときからそう変わりなかった。

「久しぶり。元気にしてた?」

動揺した心を悟られないように、いつものようにやんわりと微笑み返す。

「うん、わたしは元気だよ。でも、美鈴って家このあたりだった……?」
「ううん、バイト帰りなの」
「バイト? なにか欲しいものでもあるの?」

彼女は不思議そうに首を傾げる。当然といえば当然の反応だった。高校時代の友人である彼女は美鈴の家柄を知っているし、反対に美鈴も彼女の背景にあるものを知っている。"バイト"だなんて、彼女にしてみれば聞き慣れない単語だろう。

「社会勉強、かな」

なんと答えるべきか悩み、これが一番無難だろうという回答をひねり出す。

「そっか。美鈴はがんばり屋さんだもんね」

幸いにも、彼女はすんなり納得してくれたようだった。彼女の控えめな性格からして、納得できなかったとしてもしつこく尋ねたりはしなかっただろうけれども。
べつに、嘘ではない。ただ本当の理由ではない、というそれだけだ。――――彼と対等でいるため、だなんて。どうして他人に言えただろう。

「ね、いま時間へいき? よかったら、ちょっと話しできないかな」
「大丈夫よ」
「よかったー! あのね、おいしい喫茶店知ってるんだ。きっと美鈴も気に入るとおもうよ」

喜ぶ彼女に合わせながら、今日は電話はやめてメールにしようと頭の中で考える。自分を待っていてくれる人たちに、きちんと連絡をいれなくては。

バイトをしたいと願い出たとき、誰もが渋った。両親でさえもあまりいい顔はしなかった。そうさせた原因は間違いなく過去の自分であり、ただ純粋に心配してくれているのは美鈴もよく分かっていた。けれど、引くつもりはなかった。自分の境遇に甘えたままで彼の傍にいるのは嫌だったからである。だから料理も掃除も積極的にしたし、洗濯だって覚えた。そんなことをしなくてもいいのに、とメイドの女性たちは複雑そうな顔で見ていたけれど。
今回はどうやって説得しようか、と思案していると、ある日突然許可が下りた。ただし、送り迎えをするという条件付きで。どうしてだろうと疑問が湧いたが、すぐにその理由は判明した。兄がそれとなく両親と話してくれたのだ。彼自身も高校時代にバイトをしていたのだから、効果は絶大だったのだろう。兄にお礼を言っても、彼はいつものようにはぐらかすだけだったが。

彼に助けられてしまったのは喜ばしくもあり、悔しくもあり、そして切なくもあった。結局彼は、自分を守るべき妹としてしか見ていないのだから。

◇◇◇

「会うの、卒業して以来だよね。美鈴は音大に通ってるんだよね」
「うん、実家から通ってるの。たしか、保母さん目指してたよね」
「うん、そうそう。毎日たいへんだけど楽しいんだ」

お洒落な喫茶店で女の子同士の久々の再会、とくれば当然ながら昔話に花が咲く。
だけど、変わっていない、なんて事はないのかもしれない。彼女はあの頃よりずっと綺麗になって、ずっとずっと幸せそうな顔をするようになった。

「綺麗になったね」

何気なく口に出せば、彼女はかあっと顔を赤くする。

「も、もうお世辞はいいよ……!」
「ううん、本心だよ。なんかね、恋してるって感じがしてる」
「そ、そうかな……。先生とのことは美鈴には話したよね」
「ええ。……あれ、もしかしてまだ先生って呼んでるの?」
「え、あ……」

やんわりと聞いてみればどうやら図星だったらしく、彼女は耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに俯いた。その仕草がなんとも可愛らしくて、思わず美鈴の頬が緩む。
高校時代、彼女が片思いしていたのは担任の教師だった。様々な障害を乗り越えてなんとか告白したものの、その結果は微妙といえばとても微妙なもので。突き放すでもなく、受け入れるでもなく、ひどく曖昧だった答え。それでも彼女にとっては充分にプラスなもので、高校を卒業してから無事付き合い始めたのだと聞いた。この反応から見て、仲良くやっているのだろう。

「呼んであげたら、いいのに。きっと喜ぶわ」
「せ、先生にもそう言われてるんだけどね……。その、なかなか癖が抜けなくて……それにはずかしくって、どうにもなかなか……」
「焦らずにゆっくり、呼ぶ練習してみたらどうかな」
「う、うん……そうしてみる、ありがとう」

私は呼ぶ事を諦めてしまったけれど。
その言葉は飲み込んで、砂糖だけを入れたコーヒーを口に含む。そうすれば、口の中に程よい苦味が広がっていった。普段あまり飲まないそれは、どこか彼を連想させた。

「幸せそうでよかった」

それは間違いなく、心からの言葉だった。これから先、二人がどんな道を辿るのかは誰にもわからない。それでもきっと二人なら大丈夫だと、そんな根拠もない思いを抱いた。叶うなら、いつまでも笑顔でいられるといい。
美鈴の言葉を聞いた彼女はぱあっと顔を輝かせ、しかしその後すぐに表情を歪めた。妙に気にかかり、美鈴は軽く首を傾げる。

「どうしたの?」

何か、おかしな事でも言ってしまったのだろうか。だが彼女が続けた言葉は、美鈴の予想とは大きく異なっていた。

「……美鈴って、時々どこか遠くをみてるように笑うよね」
「え?」
「ごめんね、気付いてなかったわけじゃないんだ。でもわたしじゃ何もできないこと知ってたし、言うべきじゃないと思ってたの。久々に会った美鈴があの頃のように優しいから、わたしすごくうれしかったんだよ。でも美鈴、あの頃よりもっと悲しそうに笑うようになった……っ」

そう言った彼女の方がずっと悲しそうで、今にも泣き出しそうに見えた。スカートの上で握り締められた細い手は、美鈴から見てもわかるほどに震えていた。あまりにも切実そうで、あまりにも痛々しくて、返す言葉に詰まってしまう。

「――――……ごめんね」

他の言葉なんて、持ってはいないのに。

「わたしこそ、ごめん……無神経なこといった」

謝罪の意味に、彼女は気付いてくれたのだろうか。どうかもうそれ以上は触れないでほしいと、本音をさらけ出す事は出来ないと、そんな思いが込められた拒絶であった事を。
彼女の気遣いは本当にありがたかった。あの頃も今も、暖かさに触れる度に嬉しかった。けれど、それでも、どうしても。誰にも触れてほしくはなかったのだ。

誰かに触れられる事で彼との思い出が広がっていくのが、美鈴にはどうしても耐えられなかった。たとえそれで、他の何を切り捨てようとも。

「ごちそうさまでした。美味しかったわ」
「あ、うん、ごちそうさま」

どことなく重苦しい空気を引きずったまま、お茶会は終わりを迎える。美鈴が伝票に手を伸ばそうとすると、彼女によって止められた。

「あ、ここはわたしが払う! 誘ったのわたしだもの」
「え? でも……」
「ね?」
「……うん、ありがとう」

どうやら先程の発言に対する罪滅ぼしのようなものも含まれているらしく、強く断る事も出来なかったため、今回は素直に甘える事にした。次に出会ったときは何かお礼をしようと決めて。

店を出て、二人で空を見上げる。雨が降りそうな気配はなかった。

「あ、さっきまで変な天気だったけど晴れてきたね」
「本当ね、安心したわ。傘買わなくちゃと思ってたから」
「そっか、ならよかった。傘って増えちゃうもんね。わたしは折りたたみ傘持ち歩いてるんだ」

ほら、と彼女が取り出したのは、落ち着いた色合いで先端にレースのついている折りたたみ傘だった。好みはそのままのようで、なんとなく安堵を覚える。突き放したのは自分で、謝らないといけないのも自分だったのに。

「じゃあ、わたしはここで。付き合ってくれてありがとう」
「私こそありがとう。楽しかったわ」

携帯を取り出そうと足を止めた美鈴とは違い、彼女は逆方向へ歩いていく。段々と小さくなっていく背中を眺めていたら、ふいに彼女は振り返った。

「ねえ、美鈴。どうか後悔しないように生きてね」

それは、いつかと変わらない言葉だった。そんなにも自分は悔やみながら生きているように見えるのだろうか。そんなわけは、ないのに。

「――――後悔なんて、しないよ」

彼女が去った後、ぽつりと呟く。返事をするまでに随分と間があいてしまった事に、そのときの美鈴は気付けないでいた。

悲しくも美しい旋律の行方は / top / 遠い空へと奏でられた葬送曲