時はいつだって流れている。何かを置き去りにしながら、それでも進む。

Blue Rose
遠い空へと奏でられた葬送曲

「もう後、一週間後なのね」

何度カレンダーを確認しても、その事実が変わる事はない。日付に変化が訪れるわけでもない。もうすぐ、なのだ。彼が全てをなくした日が来るのは。何もかもを諦めた日が、来てしまうのは。

「お嬢様がこちらで弾かれているのは珍しいですね」

声がした方に目線を向ければ、丁度掃除をしに来たらしいメイドがそこに立っていた。感慨深く言われ、そういえば確かにそうかもしれない、と美鈴は再びピアノに視線を落とす。

数多くの装飾品が飾られた家の中で大きく存在を主張する、白黒のグランドピアノ。かの有名な人物画携わったと謡うだけあって音は鮮明で美しく、外観も高級感に溢れる、最高級の一品である。ピアノを弾く者ならば一度は夢見るものだろう。しかし、実に勿体ない話ではあるのだが、早瀬家で触れる者はほとんどいなかった。美鈴はある日を境にほとんど触れなくなったし、かざみに至っては頑なに遠ざけていたからだ。両者とも理由があっての行動だったとはいえ、家の者達は惜しんでいた。どちらも演奏できるだけの実力を持っていたとくれば、尚更。

美鈴は人差し指で鍵盤を軽く叩く。ぽーん、と単調な音がその場に響いた。

「いい音」

改めて聞く音はまさに理想通りで、頭に思い描く曲をずっと弾いていたい気持ちになる。いっそそうしてしまえば、楽だったのかもしれない。悩む必要もないのかもしれない。そこまで考え、出来るはずもない、と美鈴はその思いをすぐに打ち消した。

「きっとあの人は、これから先も弾こうとはしないんでしょうね」

特に目的もなく、適当に叩く。そんな美鈴を、メイドの女性は物言いたげに見つめた。

「お嬢様……」
「私は両親がいるから、失ってしまったあの人の気持ちは分かりません。きっとあの人は、理解を望んですらいないのでしょうから。……だからこれは、私の我侭でしかないんでしょう」

彼は自分に、自分たちに、何も期待してはいない。何も求めてはいない。そんな現実はとう思い知っているのに、それでも叶うなら少しでも分かりたいと願う。その思いこそが彼の負担なのだと、だから彼は家を出て行ったのだと、それすら分かっているくせに。
父と母、自分だけなら、きっと彼が辿る道はもっと違ったはずなのだ。だが残念ながらそうもいかず、彼は異常までに早瀬家を閉ざした。迷惑をかけないように、恩を売られないように、必死に一人で生きようとしていた。

「遺産目当て、と思われるのが嫌だったんでしょうね」

あまりに小さな呟きだったため、女性に聞こえたのかは分からない。だが内容に察しがついたのだろう、寂しげに目を伏せた。
早瀬家というのは周囲に一目置かれる家であり、親族同士の繋がりも強い。そこに突然現れたかざみは、注目の的だった。親族だと考えると哀しくもあるが、やはりそれだけ数がいれば良い人間ばかりでもなく、かざみは冷たい目で見られる場面が多かったのである。父も母もその中からかざみを守り、そして美鈴も守った。両親は、二人を分け隔てなく愛した。普通ならばそれに嫉妬の一つもするのかもしれないが、美鈴がそんな感情を覚える事はなかった。両親が兄を愛したように、美鈴もまた兄が好きだったからだ。

――――けれど。

「一人暮らしをしようと思うんだ」
結局彼は、自分たちに心を許してはくれなかった。優しくされればされるほど、彼は距離を置いた。夜中にひとり、ただひとり。音も立てずに静かに泣いていた日もあったのだから。

(……でもあの人は、本当の意味では離れなかった)
彼は大学は自分で選び、両親の会社を継ぐために経営学科へと進んだ。その理由を、本心を、彼は口にしたりはしなかった。だがそのくらい、気付いていた。気付かないわけもなかった。

「それもこれも、私のせいよね」

いざ言葉にしてみれば、ずしりと胸に沈む。
美鈴は幼い頃から、跡取りとして恥ずかしくないように様々な教育を受けて育った。それが日常で当たり前だったため、苦しいとは思わなかったし、いつか継ぐ日が来るのだと覚悟もしていた。けれど美鈴は自分で悟っていた。自分は上に立つ人間としては向いていないと。彼はその事に気付いてしまっていたのだろう。だから何も言わずに、”早瀬家の長男”として役目を受け取ったのだ。美鈴を、妹を守るために。
(だけどあの人は、いつだって多くは語らない)
そして自分も、何も出来ないでいる。庇われてばかりで、彼に何も返せないでいる。彼がまるで何も気にしていない風に振舞うものだから、形にする機会が失われてしまうのだ。それでも、言った事が全くないわけではないけれど。

すう、と息を吸い込み、終盤の上に指を走らせる。広い屋敷内に、久しぶりにピアノの音が響いた。弾いているのは、美鈴がまだ幼い頃によく弾いた明るい曲だった。そのため長く仕えている者達は美鈴が弾いているのだとすぐに把握し、懐かしいと聞き惚れる。傍にいたメイドの女性は音楽には詳しくなく、曲も分からなかったが、彼女の演奏が素晴らしいものである事だけは充分に理解した。けれど聞けば聞くほど泣きたくなって、耳を塞ぎたくなった。彼女の細い背中から目を背けたくなった。自分を責めながらそれでもピアノを弾く美鈴は、痛々しくてたまらなかったのだ。

かなしい、さみしい、くるしい。色々な感情が音に混じる。今の美鈴はそうする事でしか自分の想いを消化出来そうにもなかった。あと、一週間。今年の彼はどうするのだろう。どんな思いでその日を迎えるのだろう。罪悪感に駆られながら、それでも一生懸命に過去と対面するのだろうか。……自分を、置いて。
ぐるぐると想いを巡らせながら、五分ほどの曲を弾ききる。達成感はなかった。ただただ、虚しさだけが残った。

「お嬢様……、あの」

離れる事も出来なかったのだろう、ずっと聴いていた女性は、ためらいがちに話しかける。

「あの方は……貴方のお兄様は、お優しい方ですよ」
「……ええ、そうね」
「そしてお嬢様も、お優しい方です。ですからどうか、そんな風にご自分を責めないでください……」

ひどく切実そうに言われた言葉が、美鈴の心にゆっくりと染みこんでいく。そう言ってくれる彼女もまた、優しいひとだ。
美鈴はピアノから手を離し、女性を見る。その事に気付いた彼女は伏せていた顔を上げ、びしっと姿勢を正した。

「取り寄せたい花があるのだけど、一週間後に間に合うかしら」
「お花、ですか? はい、よく利用している花屋なら充分間に合うと思います」
「よかった」

突然の問いは予想外だったようで、女性は不思議そうな顔をしていたが、追及する事はなかった。恐らく、ある程度は見当がついたのだろう。それが美鈴には有り難かった。

「ええと……通帳どこやったかしら」
「お嬢様のバイト代を貯金されている通帳でしょうか。私が探しましょうか?」
「いえ、大丈夫よ。ありがとう」

緩やかに微笑んでから、美鈴はもう一度ピアノと向き合う。今度は先程とは異なり、落ち着いた曲調だった。
彼は、かざみは美鈴の事を「妹」として大切にしている。美鈴もまた、彼を「兄」として慕っている。しかし似ているようで二人の想いが交わらないのは、美鈴が彼を一人の男性としても愛しているためだ。彼の優しさや気遣いは、本当に嬉しかった。だが同時に胸が痛んだ。隣には決して立てないのだと、その度に告げられているようで。

だから、せめて。せめて、自分に出来る事をしよう。それはひょっとしたらとてもちっぽけなものかもしれないけれど。何の意味もないかもしれないけれど。
少女の奏でる悲しくも美しい音色が辺りに散らばり、人々の耳に届く。やがて忘れられてしまうのだとしても、今だけは。

「レクイエイム、ですね」

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