蓋をした思い出に、 蓋をした感情に、  もう一度出会うとき。

Blue Rose
水溜りに広がる投げ捨てた石の波紋

一年に一度、必ずやってくる日がある。どれほど目を背けても、どれほどカレンダーを見ないようにしても、その日から逃げる事は出来ない。携帯に大きく表示された日付を確かめながら、ああやっぱり今年も来てしまったと小さなため息をついた。
去年も、一昨年も、その前も。彼は囚われたままだった。直前になると必ず体調を崩した。じゃあ今年は? 今年もそうだろうか。きっと違うのだろうな、と携帯を閉じる。彼はそこまで弱くはない。自分と、違って。

「お嬢様」

聞き慣れた声が耳に届き、目線を移す。そこにいたのは、花束を抱えたメイドだった。

「どうぞお気をつけて」

子供が大人になるくらいには、世間を知るくらいには、もう随分と月日が経ってしまった。いつまでも逃げてはいられない。彼のせいにするのはやめて、自分の足で歩き出さなくてはいけない。だから、上を向いて。さあ、笑って。

「ありがとう」

**

電車を乗り継いで、ゆったりとした動作で歩く。その度に栗色の柔らかな髪が風に揺れた。彼女が好んで着る淡い色のワンピースは、よく見ればすぐに高価なものだと分かる一品である。それを無理なく着こなす線の細い体に、美少女、と形容するに相応しい顔立ち。加え、手にしているのは大きな花束。当然のように視線を集めたが美鈴が気にする様子はなく、感情が読めない表情のまま淡々と歩いていった。明らかに近寄りがたい空気を出しているためか、彼女に声をかける人間はいない。
一年に一度しか通らない道を通ってようやく目的地に辿り着くと、美鈴はそこで初めて表情を崩した。覚悟を決め、石段を一段ずつ上がっていく。振り返る事も、位置を確認する事もしなかった。必要もなかった。そして、ある石の前で足を止める。

「お久しぶりです、おじさま、おばさま」

彼女が声をかけた墓石には、彼の旧姓が刻まれている。僅かに汚れているのから見て、恐らくまだ誰も訪れていないのは分かった。そうきっと、彼もまだ。

「もう一年なんて、早いものですね……」

墓石の前で立ち尽くし、しみじみと零す。だが答えてくれる人は、いない。彼等は最愛の息子を残して逝ってしまったのだから。
美鈴自身は覚えていないのだが、幼い頃に彼の両親と会った事があるのだという。実の娘のように可愛がってくれたのだとも。二人とも人格者で、多くの人に慕われていたのだとも聞いた。そんな二人の命を奪い、跡形もなく全焼したあの火事は、悲惨なものだった。助かったのは、丁度遊びに出ていた息子だけ。一人でも助かった事を、喜ぶべきなのかもしれない。幸運であったと言うべきなのかもしれない。だが、傷を負うのは残された方だ。無念の死を遂げた二人は、息子を置いていってしまった二人は、最期に何を思っていたのだろう。今の彼を見て、なんと言うのだろうか。

「……あなた方は、私達を恨むかもしれませんね」

どうしてもっと彼を気にかけてやらなかったのかと。そうなじる権利が、彼等にはある。もし、もしも。二人が生きていたなら、きっと彼はあんな風に心を閉ざしたりはしなかったはずだ。
両親を亡くし、残った遺産を巡って身内同士で争われ、収集がつかずに施設に入れられた兄。最終的に何の縁もなかった美鈴の両親が引き取るまで、彼は抜け殻のような日々を送っていたのだという。あまりに喋らなかったため、ショックで喋れなくなったのかもと疑われもしたようだ。彼の境遇に嘆き、なんとか引き取れないかと思案した美鈴の両親は、最後にはほぼ強引な形で引き取ったらしかった。彼の親戚達を納得させようと、恐らくとんでもない苦労の末だったのだろう。

「さて、お水替えて来ますね」

とりあえず花束を墓石の横に置き、代わりに花入れを手に取る。枯れてしまった花を捨て、新しい水を注ぐとバケツにもたっぷりと水を入れた。バケツを運ぶくらいでよろついてしまう自分の非力さが悔しかったものの、今はそんな事を言っても仕方がない。なんとか運び終え、鞄から取り出したタオルをバケツにつけると、暮石を磨き始めた。

彼と出会った日の事は、よく覚えている。傘を差したところで気休めにしかならないほどの、大雨の日だった。連れて来られた彼はひどく無表情で、どこを見ているのかすら分からなかったものだ。適切な言葉が見つからなくて、声をかける事も出来ずに呆然と立ち尽くしてしまったのを美鈴はずっと忘れられなかった。
「兄妹」として暮らし始めてからも、彼は笑いもせず泣きもせず、喋る事すら稀で、まるで人形のようだった。それだけの体験をしたのだと、傷が簡単に癒えるはずもないのだと頭では理解していても、所詮は自分も子供だったのだ、ガラス細工のような彼を見ているのはひどく怖かった。空虚が広がっている気がして、手を伸ばすのはためらわれた。それでも両親に「出来れば仲良くしてほしい」と言われていたし、兄が出来るという事は嬉しかったため、意を決して幾度となく話しかけた。何度拒絶されたかなんて、今はもう思い出せないけれども。

「うん、綺麗になりましたよ」

ぴかぴかになった暮石を見て、満足げに笑う。花も生ければ、汚れていた面影などどこにもない。彼の母がこよなく愛したという、わざわざ取り寄せてもらった外国の花だ。花の持つ特徴的な香りが、美鈴の鼻をかすめた。

「いい香りですね、おばさま」

この後、彼も両親に会いに来るだろう。それまでには退散しなくてはいけない。だが、しばらく動けずにいた。

人形のようで怖い、と思っていた兄の印象が変わったのは、突然だった。夜中に一人、音も立てず静かに泣いていたのを見たときだった。――――このひとをこのまま一人にしたら、どこかへいってしまう。手を離したらきえてしまう。子供心ながらに強くそう思い、そばにいようとそばにいたいと望んだ。彼が自分を妹としか見なくても、彼が一人ではなくなるのならそれでいい。最高の妹になってみせればいい。あの時の気持ちは、決して嘘ではなかった。どれほどの年月が過ぎても、色褪せる事はなかったのだから。兄としても人としても、彼を心から愛しているのだから。

それが自分にとっての救いであり、醜い部分でもあると。わかっては、いたけれど。

「一人暮らしを、する……?」
「うん。それが多分、一番いいと思うから」
「そう、ですか……」
「何かあったらいつでも連絡して。もちろん、家にも来ていい。鍵、渡しとくから」

彼が大学に入る、少し前の出来事だった。この家にいる事で遠慮し続けているのを知っていたから、恵まれた自分が引止められるわけもなく、本心を言えるはずもなく、結局彼を送り出した。いかないで、と引き止めて自分の気持ちを伝えていたなら、何か少しでも変わっていたのだろうか。そんな形を望んだわけではなかったのだと、彼はいつか気付いてくれただろうか。……今更もう、手遅れだけれど。

両親の事は好きだし、誇りでもある。けれど。「兄妹」という形でしか繋ぎ止められなかったこの想いを、一体どうしろというのだろう。

「おじさま、おばさま。きっと今年の彼はお友達を連れてくると思います。だからどうか、温かく出迎えてあげてくださいね」

そしてどうか。貴方たちが愛した彼を愛する事を許して欲しい。

「あの人を、あの人達を、守っていていてください。私たちも、できることを精一杯やります」

言いたい事を全て吐き出して、その場を後にする。だが、家に帰る事はしなかった。早く戻らなくては送り出してくれた彼女を心配させてしまうと理解していたけれど、まだ帰る気にはなれなかった。笑える自信がなかったのだ。
過去に一度、”壊れて”以来、両親や周囲の過保護に磨きがかかってしまい、無断で外出するのは禁止されるようになった。それなのに今日この場所へ来る事を誰も咎めず、ついてきたりもしないのは、今日が特別な日だという事に他ならない。

タクシーから降り、やってきたのは広い砂浜。供えなかった一厘の花を海に流し、すうと息を吸い込む。ちはやのようにボイストレーニングを受けていないから、彼女ほどの音量は出ない。だが自分が出せる最大の声で、音を紡ぎ始めた。愛しさを、切なさを、寂しさを、慈しみをこめて。

波の音にさらわれ、音は誰にも届かない。彼にさえ届くはずはない。知っているのは、聞いているのは、本人だけ。だが美鈴にはそれでよかった。――同時刻、彼が過去と向き合っていたのを、彼女は知らない。

遠い空へと奏でられた葬送曲 / top / 追いかけたのは貴方との明日