雨が、降る。止む事のない雨が、心の中に降り続ける。

Blue Rose
映す義務を捨てた鏡の破片

「美鈴って、時々どこか遠くを見てるように笑うよね」

「美鈴が笑ってて安心した」

どう生きれば、上手く生きられるというのだろう。

色々な言葉が色々な声がぐるぐると頭の中で回って、やがてぶつかり合う。ぶつかっては消え、ぶつかっては消え、また浮かび上がる。その繰り返し。それはやがて息苦しさを生んで、立っている事さえ困難になった。

彼の事を、兄として心から愛している。けれどそれ以上に、男性として愛している。例え何が起こってもその事が自分の中で揺ぎないのなら、それでよかった。だから、誰にも触れられたくはない。彼にも、気付いてほしくはない。あの優しい人にもう背負わせたくはなかった。声が届いて欲しくは、なかった。

見返りを求めない愛。そう言えば聞こえはいいが、そんなに綺麗なものではないと美鈴は心のどこかで分かっていた。きっと本当は、もっとどろどろとした――――

(……考えるの、やめよう)
バイトからの帰り道。いつもの待ち合わせ場所までゆっくりと歩いていく。当初は近くまで迎えに行きますと言われていたのだが、あまりに悪目立ちしてしまい、次の日バイトに行きづらくなってしまった。そのため互いに譲り合う事にし、少し離れた場所に車を停める事になったのである。

(時間が、止まればいいのに)
相手は、気を遣ってやってくれている事。だから今は誰にも会いたくないなどど思ってはいけない。それを言う資格は、今の自分にはないのだから。沈んでいく意識をなんとか浮上させようと、俯いていた顔を上げた時、誰かと目が合った。……覚えのある、顔だった。

「君は確か……」

相手も覚えていたらしく、記憶を探るように口を開く青年。当時よりも僅かに大人びてはいたが、間違いなく以前会った事のある人である。言葉を続けるべきか迷っている様子の彼に、美鈴は自分から声をかけた。

「早瀬 美鈴です。ええと、兄のご友人ですよね」

この時、知らない振りをして通り過ぎてしまえばよかったのだ。無駄な記憶力を発揮して覚えてなんていなければよかった。そうしていれば、何も狂わずにすんだのに。

「あー、どうだろ。友人っていっていいのかな。うん、一応そう」

なんとも曖昧な返答は、兄が普段どんな態度を取っているのかよく分かる。ちゃんと大事にしているだろうに、どうにも彼は冷たい言葉を投げつけがちなのだ。なんとなく微笑ましくなり美鈴が苦笑いを浮かべると、相手はにっこりと笑った。

「ね、今ちょっとだけ時間ある?」

◇◇◇

「へー、素敵な喫茶店だね。俺いつもここ通るのに気付かなかった」

彼は楽しそうにきょろきょろと辺りを見渡しながら、メニューを開く。何がオススメ? と聞かれたため、実に無難な返事をしてみれば、じゃあそれにするねと笑って言った。

何の嫌味も毒もない、人好きするだろう温和な笑み。負けず劣らず、美鈴も一見完璧な態度を取った。だが彼は美鈴を見て眉を顰めると笑顔を崩し、どこか困ったように小さなため息を吐き出す。その次に続くのは先程までの明るい声ではなく、少し低めの感情が読めない声だった。一体どちらが本当の彼なのだろうか。

「演技、上手いね。でもそれ、疲れそう」
「どうかしましたか?」
「よく俺の事覚えてたね。もう三年くらい前の話なのに」
「……貴方もよく覚えていましたね」
「そりゃ忘れないよ。初対面のはずの女の子にあれだけどぎつい視線を向けられれば」

当時の出来事を思い出し、はしたないと分かっていながらも内心舌打ちしたくなる。段々と無表情になっていくのを自分でも自覚しながらも突き放すように冷たく返してみたところで、彼は言葉を途切れさせる事も動揺する事もない。最初から全て想定した上で自分と接していたのだろう。――――関わらなければよかった、と美鈴は心底後悔した。

固まってしまった空気を戻すためか、彼は店員の女性を呼ぶ。美鈴が勧めた品を二つ頼み、飲み物はどうする? と柔らかい視線を向ける。いりません、と口を開く前に「じゃあダージリン二つで」と彼が頼んでしまったため、結局何の意味も成さなかった。

「……尋ねる必要はなかったんじゃないですか」
「もしかしたら答えてくれるかなーって。ごめんね、凄い帰りたそうだね」
「いえ、そんなことは、ないですよ」

口ではそう言ってみせても、それが振りでしかない事くらいは彼も気付いているだろう。美鈴がそれ以上喋る気がない事も悟っているのか、「ねえ」と彼から切り出した。

「早瀬、笑うようになったね。明るい茶髪の友達と一緒に笑ってた。表情豊かになってて驚いたんだけど、彼は知り合い?」
「……ええ、そうですけれど」
「失礼な、無神経な事承知で訊くけど。君と早瀬って血繋がってる?」

今度こそ、完全に表情が消えていくのが自分でも分かった。

「兄から、聞いていませか」
「いいや。それにアイツから聞いても意味がない気がする」
「……血は、繋がっていません」
「そう、じゃあ問題ない、のかな」
「なにが、」
「俺がそれを言っていいのかな。俺なら、言われたくないんだけど」

なんて、タチが悪い。美鈴が何を思うか分かった上で、こうなる事も見通した上で、ずっと喋っていたのだろう。顔を伏せて黙りこむ美鈴と、淡々と話し続ける相手。空気が冷えていく中、傍から見たら自分達はどう見えるのだろうか、と美鈴はふと思った。別れ話をしている恋人同士にでも見えているのかもしれない。くだらない、とすぐに振り払ったけれど。

まわる、まわる いずれ行き場をなくして

「三年前、俺は早瀬を呼び止めた。……あの時は俺もちょっと色々事情があって余裕なかったし、うん。一緒にいた君は穏やかに笑ってその場を去ったけど、一瞬だけ俺に強烈な視線を向けたよね。どろどろとした、それこそ真っ黒な、きっついやつを」
「……否定はしませんし、謝罪もしません」
「俺さ、一応医者目指してるんだ。興味があって、心理学も少し学んだ。だからアイツから君の話を聞く度に不安になったよ。腹に大きなものを抱えたまま、君は何を支えに立っているんだろうかと」
「――――余計なお世話です」

仮面を脱ぎ捨て、はっきりと言い切る。たっぷりの嫌悪を込めて。

「それが、君の本音だよね。だからこそ、どうしても聞きたい。君は、それでいいの。本当にそれで、幸せになれるの……」

責めるような口調だったそれは、最後には悲痛そうなものに変わっていった。何故、知り合いでもない彼が辛そうな顔をするのか。何故、わざわざこんな事を言うのか。理解出来なかった。……どうして皆、揃いも揃って幸せかと尋ねるのかも。

哀れんでほしくなんてない。自分は可哀想なんかじゃない。だから同情なんていらない。優しさなどいらない。彼との思い出が二人だけの大切な思い出のままであるのなら、美鈴はそれだけでよかった。それだけで充分に満たされていた。どんなに酷い独占欲だと罵られようとも、幸せだったのだ。

幸せ、だったのに。

「……少なくとも俺は、君がいつか壊れるんじゃないかと怖いよ」

貴方がいくら心配してくれたところで、何が変わるわけでもない。そう当り散らそうになってしまうのをぐっと堪え、なんとか取り繕う。

「おせっかいだと、いわれませんか」
「うん。自覚してる。チャームポイントだと思ってるよ」
「……」
「早瀬にはうざがられるけど、だって気になるし。君も早瀬も、あそういえば君も早瀬か。生きることに、ひどく不器用な気がする」
「わたし、は」
「……突然ごめんね。でもあまりにも君の姿が頭に残ってて、ずっと気になってたんだ」

ならどうすればよかったと、言うのか。必死に搾り出した皮肉もあっさりかわされてしまい、美鈴には打つ手がない。ぎゅ、と彼には見えない位置で右手を握り締める。返す言葉が思いつかず、困ったような笑みから逃げるように下を向いているとそのうちに頼んだ品が運ばれてきた。美味しそうなケーキと紅茶がそれぞれの目の前に並ぶ。俺の奢りだからどうぞ、途方に暮れたような彼の声を聞いても、手を伸ばそうという気にも顔を上げる気にもなれなかった。そうすると泣いてしまいそうだったのだ。弱音を見せたくなんてなかった。

「どうか後悔しないように生きてね」

涙にして流してしまいたくは、なかった。

◇◇◇

「……ごめんね、家まで送ろうか」
「……いえ、結構です」
「そういえば俺の名前言ってなかったよね。俺、叶奏って言うんだ。叶えるに奏でるで、かなで。……こう言うと分かりにくいなー」

紙に書けば一発なんだけど、と彼はおどけたように笑う。自分に気を遣って雰囲気を和らげようとしているくらい、美鈴にも分かっていた。だが、合わせようという気力はどうしても湧かない。ぺこ、と一礼だけしてその場を後にしようと足を進める。すると、彼の優しい声が耳に届いた。

「俺は、本音言ってる時の君も好きだよ。――――本当の意味で、幸せになって」

それだけ言い残し、彼も歩き出したのが分かった。足音が遠ざかっていく事にほっとしつつも、どこか寂しさも覚える。なんとも勝手な話だと思う。無理やりに話を切ったのは自分の方だったというのに。ああどうして皆、同じような事を言うのだろう。幸せなのに、今が幸せなのに。

堪え切れなかった涙が、ぽたりぽたりと零れ落ちる。幸せだと、今の自分には迷わず言える自信がなかった。

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