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緋色の魔女
兎と狼とナイトメア

黒く塗りつぶされた夢を見る。何の色もない暗闇で、聞き取れないほど数多くの声が混じる。「助けて」「死にたくない」「もういやだ」「お母さん」胸が張り裂けるような声はやがて途切れ、また新たに生まれていく。逃げる事は決して許さないと責め立てるかのように、いつまで経っても鳴り止む事はない。

ごめんなさい。

何度も何度も心の中で謝りながら、必死に耳を塞ぐ。ただ時が過ぎるのを待つ事しか出来なかった。それ以外の力なんて持ってはいなかった。すると視界が開け、今度は一面に赤が広がる。拭いきれない涙が、血と同じ色の瞳から溢れた。

何もかもを飲み込み、焼き尽くす炎。肉が焼ける嫌な臭い。上がる悲鳴。目の前で倒れていく人々。消えていく灯火。自分が歪めた、愛おしい世界。

「なん、で……!!」

ちがうの。こんなことをしたかったわけじゃないの。貴方たちを恨んでなんていないの。何も奪いたくなんて、ないの。なのにどうして、自分の足元には魔方陣が浮かび上がっているのだろう。どうして途切れる事なく詠唱を紡ぐのだろう。やめて、もうやめて。お願いだから、これ以上誰も傷つけないで。守りたかった。あの日望んだのは、たったそれだけだったのに。不相応な願いへの報いだったのだと告げるようにして、赤い塊がもう一度落ちた。

「ぁ、あ……」

ひどい吐き気と頭痛で、まともに立っていられない。あちこちからしていたはずの呻き声は、ほとんど聞こえなくなってしまった。一体どれだけの人間の命が失われてしまったのか、見当すらつかない。涙を流す遺族はもっと多いはずだ。自分の想像が追いつかないほど、多くの……。そんな時右足を誰かに掴まれ、おそるおそる振り返る。

「ひ……っ」

それはもう、人の形を成してはいなかった。大部分の皮膚が焼けただれ、目は潰れ、下半身はどこにも見当たらない。僅かに上下する肩から、まだかろうじて生きているのが分かった。だが虫の息だ。にも関わらず足を掴む力は強くなっていき、ぎりぎりと骨にまで食い込む。

「緋色の魔女、お前だけは許さない……っ!!」

ああどうして、わたしは。

「……っ」

弾かれたように目を開けると、見慣れた天井が映った。しかしそれだけでは先程までの光景が夢だったのか現実だったのか判断がつかない。全身に汗を滲ませながら、サイドテーブルに置かれた明かりを頼りに部屋を見渡す。……いつもと何の変わりもない、ごちゃごちゃとした自分の部屋。けれどそこに大切な人はいない。

「せお……っ」

――――今、お師匠さまに呼ばれたような。

そんな感覚に囚われ、セオドリークはベッドから身を起こす。時刻を確認すれば、まだ彼女は眠っている時間帯だった。ならばきっと気のせいか、もう一度寝るか……という考えには至らない。ことエイレンティアに関してセオドリークの勘はとても鋭いからだ。いっそ危険なまでに。

彼女の部屋の前まで行って、一度だけノックしよう。自分の思い過ごしならそれでいい。そう決め、ローブをはおろうとした、その時だった。安定せずに大きく揺れた魔力が肌に突き刺さったのは。

「お師匠さま……?」

セオドリークの部屋にもエイレンティアの部屋にも、外部に魔力を漏らさない結界が張られている。どちらの部屋にも強力な魔法具や魔法書が置かれているため、他に影響が出ないようにするためだ。これは本人達の魔力にも適用された。つまり彼女は、部屋を出た事になる。そう理解した瞬間、セオドリークは駆け出す。

勢いよくドアノブを開け、一歩踏み出す――前に、自分の腰に抱きつく彼女の温もりを感じた。

「お、お師匠さま?」
「どこかいったらやだ、どこにもいかないで、一人にしないで……っ」

突然の事に動揺しながらも、すぐに尋常ではない彼女の様子に気がつく。ただ事ではないと、強く彼女を抱きしめた。

「大丈夫です、大丈夫。私はどこにもいきませんよ。ずっと貴方の傍にいます」

落ち着かせるように、やんわりと彼女の背を撫でる。髪を梳く余裕などなかったのだろう、いつもは結ばれている髪は背中で流れたままだ。

「ごめんなさい……っ」

縋るように握り締められた手も体も、小刻みに震えていた。

「ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ。わたしなの、わたしがやったの。ごめんなさい、奪ってしまってごめんなさい……っ!!」

ごめんなさい。うわ言のように彼女は繰り返す。しかしその謝罪はセオドリークに向けられたものではない。過去の人々に、恐らく今も聞こえているだろう幻聴に対してのものだとセオドリークは知っていた。

そもそも人格が分かれるというのは、心的外傷が大きな原因と見られている。親から受ける虐待など耐え難い経験をした際に、「これは自分が受けている痛みじゃない」とまるで身の危険があたかも存在しないかのように思い込み、無意識のうちに自分を守るのである。そうやって生まれた別の人格が痛みや悲しみを引き受け、その間本来の人格は眠る。自己防衛とも言えるそれはまだ症例も少なく、専門としている医師もほとんどいない。だが、一つだけはっきりしていた。この幼い少女は、そうまでしなければ生き残れないような辛い経験をしたのだと。

「お師匠さま……、エイレンティアさま、ティア。大丈夫ですよ、ここには私しかいません。私は決して貴方を傷つけたりはしません」

こういう時はまず彼女を脅かすものはない事を教え、安心してもらうのが先決だった。しかし彼女は弱々しく首を横に振る。

「ちがうの……、いっぱいいるの。たくさん、たくさん声がして、黒い人がわたしの周りにいるの」
「それは錯覚です、お師匠さま。聞いてはいけません。惑わされてはいけません。ここにいるのは私と貴方だけですよ」

人の影が見えたり、「死ね」などの攻撃的な言葉が聞こえたりするのは、二重人格や多重人格の人がよく訴える症状なのだという。例に漏れず、彼女もそうだった。こうして取り乱すのは、今回が初めてではない。

「せお、だけ?」
「はい、私だけです。貴方を抱きしめているのは、誰ですか?」
「せお……。セオの、香りがする」
「はい。ここには結界が張ってありますから、許可なしに他の誰も入っては来れません。貴方に害を成すものは何もありません。大丈夫、大丈夫ですよ」

母親が子どもに語りかけるようにやさしくやさしく、しかし確実に彼女の不安を取り除いていく。すると少しずつ彼女から力が抜けていった。セオドリークは涙で濡れた彼女の頬を両手で包み、上を向かせると視線を絡ませる。

「貴方は私が守ります。ですから、おやすみなさい」
「うん……」

消え入りそうな声で頷いた後、しばらくして自分にもたれかかってきた彼女をしっかりと抱きとめる。ぼんやりと光っていたセオドリークの青い瞳から光が消えていった。

「……出来るなら、貴方に魔法をかけたくはないのですが」

時と場合によるとはいっても、どうにも罪悪感は拭えない。人の思考を左右するような魔法を彼女は好まないと知っているからだ。だが今はそれよりも彼女の身をと、背中と膝の下に手を差し入れ、持ち上げようとする。が、その前に彼女の大きな瞳がぱっちりと開き、二人の目が合う。

「離せ、クソガキ」

心底機嫌の悪そうな、低い声だった。

「折角ですから運ばれてください。軽い術とはいえ、お辛いでしょう?」
「いらん気遣いだ。下ろせ」
「まあまあ、そう仰らず」

どこか楽しそうな笑みを浮かべつつ、そのままの体勢で階段を下り始めるセオドリーク。苛立ちを隠せないでいるエイレンティアは彼に魔法の一つ二つぶつけてやろうかと本気で考えたが、賢明ではないなと渋々妥協した。セオドリークではなく、自身の体が怪我をしかねなかったためである。

「お部屋でよろしいですか、お師匠様」
「いや、何か淹れろ」
「はい、何にしましょう。ハーブティーがいいですか、それとも」
「ミルクティーだ。砂糖たっぷりの」

きっぱりと言い切ったエイレンティアを、セオドリークは意外そうに見つめる。

「……よろしいのですか?」
「いいも悪いもない。文句でもあるのか」
「いいえ、ありません。了解致しました、腕によりをかけて淹れますね」

あの方と同じものを――その言葉は胸にしまって、慎重に下りていった。

◇◇◇

「はいどうぞ、お師匠様」

険しい表情で椅子に座る彼女の前に、花の模様が描かれたティーカップを置く。それを見たエイレンティアはますます眉間の皺を深くし、敵と対峙するかのような覚悟の目でティーカップに手を伸ばした。

「淹れ直しましょうか?」
「必要ない。……女神イシュルーチェと大地の恵みに感謝を」

事務的に淡々と食前の祈りを捧げると、カップの中身を口に含む。セオドリークが予想していた通り、彼女は端正な顔を盛大に顰めた。

「ですから淹れ直しましょうかとお聞きしたのに」
「煩い」

間髪を容れずに言い返すエイレンティアだが、棘は随分と軽減されている。左手で口元を押さえている姿から見ても、もどさないように必死なのだろう。

「こちらをどうぞ」

セオドリークが差し出したのは、彼が自分用に淹れたミルクティーだった。

「お前のも同じ味だろうが」
「大丈夫です、砂糖は一切入れていませんよ」
「そうか、それはそれで腹が立つ事だな」

ふうと溜息をつくとカップを持ったまま席を立ち、キッチンに飲みかけのミルクティーを流していく。

「勿体ないですよ、お師匠様」
「お前に残りを飲まれるよりマシだ」
「……厳しいですねえ」

苦笑いしつつ、自分の分を淹れ直すためにセオドリークも席を立つ。その間エイレンティアは椅子に座り直して足を組み、砂糖の入っていないカップに手をつけていた。

「大体お前、何であんな甘ったるいものを飲めるんだ」

同様の物を基本人格であるエイレンティアも飲んでいるわけだが、彼女がなじるのはセオドリークだけである。

「私も初めは驚いたものですが、慣れれば美味しいですよ」
「慣れ、か」

妙にしみじみと放たれた一言が気にかかり、セオドリークは手早く自分の分を淹れて彼女の元へ戻った。

「お師匠様は何故、飲めないと分かっていながら望まれたのですか?」
「あの子が好きなものがどんなものなのか、興味が湧いただけだ。……とてもではないが、アレは私には無理だな」

基本人格は甘い物を好んだが、交代人格は不得意としていた。普段ならば砂糖は入れないか、後味がすっきりしたものを好む傾向にある。それなのにわざわざ飲もうとしたのは、彼女なりに色々と思うところがあったからなのだろう。

「セオドリーク」

呼ばれた名が、重苦しく響く。その後、彼女はひどく言いたくなさそうに続けた。

「一応、それなりに、ほんの少しくらいは、弟子としてお前を信頼しているつもりでいる」
「有難うございます」

そうは言いつつも、彼女の顔にはありありと「非常に不本意だが」と書いてあった。

「お前が彼女に近付く事を許すのは、あの子を傷つけるような真似は絶対にしないだろうと信じているからだ。だが、近頃のお前の言動は目に余る」

やはりこの話題が来たか、とセオドリークは身構える。そろそろ触れられるだろうと想定済みではあったのだ。……心当たりがあまりにも多すぎてどれを弁解すべきなのかは悩んでしまったが。

「あの子が優しいからといって、調子に乗るなよ。あの子は自分の気持ちを中々言い出せない子なんだから」
「……はい、心得ております」

反論の余地もなく、誠実に答える。彼女が言い出せる性格であったなら、きっとあんな風にストレスを溜め込む事もなかったはずだ。苦痛も苦悩も何もかも一人で背負い込んで、けれど耐えられるはずもなくて、結果、どこかに無理が生じる。

世界を置き去りにしたようにぼうっとする事もあった。人込みを怖がる事もあった。食べ物の味がしていない時期もあった。もう死にたいと泣き叫んだ日もある。セオドリークが常に傍にいる最近では比較的安定しているものの、根本的な問題が解決されない限り、彼女の心の病は完治しないのだろう。そう、根本的な問題が解決されない限り。

「ろくでもないですね、戦争なんて」
「ああ。何の訓練もされていない十歳の女の子を放り込まなきゃ勝てないような戦なら、さっさと負けていればよかった」

エイレンティアの発言は王族の前で漏らせば首を刎ねられてもおかしくないようなものだったが、唯一聞いているセオドリークが異論を唱える事はないため気にする理由もない。

「――――私やお前のような奴の方が、稀なのだろうな」
「お師匠様?」
「お前も短い期間とはいえ騎士団にいたのだから分かるだろう。訓練された兵でさえ初めて人を殺めた際には錯乱する者が多い。戦場なら尚更な」
「……そうですね」

遠い昔の出来事を思い起こせば、彼女の言う通りだった。同類である人間を殺す事への抵抗感は非常に大きく、決して容易な話ではないのである。仲間や自身が身の危険に晒されても尚、敵を殺せなかったなんて話はそう珍しくもない。克服出来たとしても命を奪った者の血の罪悪感を死ぬまで背負い続ける事になり、殺さない事を選択すれば倒された仲間への血の罪悪感や大儀に背いた恥辱が苛む。立ち直れず、騎士団をやめていった者達もいるほどだ。セオドリークがその輪の中に入る事はなかったけれども。

「結局お前は、そんなところばかり私に似てしまったんだな」

たった一人のためなら、他の何を犠牲にしようとも構わない。躊躇いも後悔もない。それは交代人格とセオドリークに共通する思想だった。

長く戦場に出た場合、多くの人間が精神になんらかの変調をきたすという。狂気に追い込まれない人間、例えばこの二人のような人間はごく少数であり、その場合は戦場に来る前に既にして正常ではない、生まれついての攻撃的社会病質者らしいとは著名な精神科医の言葉だ。 いつかブルーノが笑いながら「きみら師弟って怖いよねえ」と半ば本気で零していた事もある。

「悔やみますか」
「いいや。お前が勝手にした事だからな、それ自体はどうでもいい」

どこかほっとしつつも、多少なりとも気にかけて欲しいと思うのは恋心故なのだろうか。それすら彼女は「どうでもいい」と鼻で笑って切り捨てるだろうけれど。

「お師匠様は男前ですねえ」
「好きに言え。だが……、」

彼女には珍しくも口篭ったため、一つの可能性を口にしてみる。

「言われたくないのはお母さん、ですか?」

戸惑った風に目線を逸らしたので、図星である事は間違いなかった。

「やはり気にしていらしたんですね」
「あの子の中で私はそういう位置にいるのかと思うと……。母親になったつもりはないんだが」
「そうですね、お師匠様はどちらかといえばお姉さんといったイメージでしょうか」
「それはそれで微妙なところだな……まあ母親よりはいいのか」

ああでもないこうでもないと頭を抱える彼女は普段よりも子供っぽく見えて、なんとも可愛らしい。基本人格の彼女と交代人格の彼女が隣に並べばきっととても素晴らしい目の保養だろう。現実には叶わない、所詮妄想でしかないが。

「……何を笑っているんだ、相変わらず気持ちが悪い奴だな」
「いいえ、何でもありませんよ。ええ、何でも」
「そう言うならその薄気味悪い笑みを止めろ。ああもういい、私は寝る。これ以上起きていると体に負担がかかるからな」

最後の一口を飲み込んで、乱暴にカップを置くと席を立つ。その顔には明らかな疲労が浮かんでいた。

「お休みなさい、お師匠様。ゆっくり休まれてくださいね」
「ああ」

そこで、話は終わった。終わってもよかった。終われるはずだった。だがセオドリークは何かを考え込む仕草を見せ、もう一度口を開く。

「私は貴方も心配なんです、シ……」
「その名で呼ぶな。私はエイレンティアでいい」

激しい怒気を含んだ声で遮られ、セオドリークは押し黙る。とてもではないが、続けられるような空気ではなかった。敵にも味方にも恐れられた彼女の威圧感は、並大抵のものではない。

「……いえ、失言でした。お休みなさい」
「お前もくだらない事を考えていないでとっとと寝ろ。ご馳走様」

ぞんざいに言い残して、彼女はその場を後にする。一人残されたセオドリークは、悲痛そうに彼女の背中を見送った。

「俺は、貴方の心も守りたいんですよ」

行き場のない彼女の名前が、音もなくとけた。