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緋色の魔女
ブバルディアの追憶

いつも通り、栄養バランスや彩りが考えられた完璧な朝食を作り終えたセオドリークは時刻を確認する。普段の彼女なら起きてくる時間帯なのだが、気配が全くない。嫌な予感を覚えつつも、彼女の部屋へ向かった。

「お師匠さま、起きていらっしゃいますか」

何度かノックしてみるものの、中からは物音一つ聞こえない。特に予定が入っているわけでもないためどうしようかと悩んだが、「失礼しますね」と一言断って中へと入る。薬草や薬の臭いが充満する部屋は、毎回の事ながら神経を張り詰めていなければ歩けない。壊してはいけないもの、触れてはいけないものが整理されていないままあちこちに転がっているからだ。流石に毒薬は隔離したようだが。

ようやく彼女の元へ辿り着くと、やはりまだベッドの中だった。彼女お手製の大きなぬいぐるみを抱きしめて眠る姿は、どう見てもただの子供である。

(……顔色が悪い)

気になって額に触れてみるが体温は問題ない。周りを見渡してみると、サイドテーブルの上に空き瓶とコップが置かれているのが見えた。空き瓶を手に取って臭いをかけば、独特の臭いが鼻をかすめる。……睡眠薬だ。近頃あまり眠れていないようだったから、改善するために飲んだのだろう。

顔にかかっていた髪をはらい、そのままゆっくり梳く。眠れないほど不安定になっている原因は、見当がついた。脳裏に忌々しい親子が浮かんで、どうして彼女の心を引っ掻き回すのかと苛立ちが湧く。一つ一つが、彼女を追い詰めているというのに。自分も、同罪かもしれないけれど。

「ぅん……」

閉じられていた彼女の瞳が、ゆるゆると開く。セオドリークは先程までの苦々しい気持ちを抑え、彼女に笑いかけた。

「おはようございます、お師匠さま」
「おはよぅ……?」

ぼんやりとしたまま体を起こそうとする彼女を手伝う。まだ覚醒しきらないようで、ごしごしと目を擦っていた。

「あさ……? わたし、ねぼうした?」
「いえ、大丈夫ですよ。もう少しお休みになりますか」
「ううん……おきる。せおとごはん、たべる」
「では、用意してきますね」

いつまでも部屋にいるのもよくないだろうとエイレンティアに背を向けた時、「待って!」と彼女の制止がかかった。

「お師匠さま?」
「あれ……ごめん、なんでもないのです」

無意識だったのか、彼女自身不思議そうにしていた。しかしセオドリークとしては、何でもないという言葉を鵜呑みには出来ない。彼女が出してくれたサインを、見逃すわけにはいかないのだ。

「大丈夫です、私はどこにも行きませんよ」

シーツを握り締めていた彼女の手に触れ、そっとほどかせる。

「で、でも……せおはほんとは」
「私が、貴方の傍にいたいんです。貴方の傍にしかいたくない。迷惑、ですか?」
「そ、そういうわけではないですっ。でも、それは……」

俯いてしまったエイレンティアは、セオドリークと目線を合わせようとしない。言いかけた言葉を続けるべきなのか迷っている様子だった。痛々しくて見ていられなくて、聞かない方がいい気がして、思わず手を伸ばす。

「傍にいます、ずっと」

腕の中にいる彼女はあまりに小さく細く、頼りない。ぽんぽんとあやすように背を叩けば、そのうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。

ベッドに横たわらせ、暑くない程度に毛布をかける。何をするでもなく、セオドリークはただずっとエイレンティアの手を握り締めていた。せめて少しでも、彼女の心が安らげばいいと願いながら。

「リンくん、だめ……っ!!」

あの時リンデグレンを止められなかった事を、彼女は今も悔やんでいる。魔力が低ければまだしもそれなりに高かったから、今まで通りの生活を送るのはほぼ不可能だからだ。しかしだからといって、彼女に責任はない。ありはしない。リンデグレン本人だって彼女のせいにしたりはしないだろう。けれど、「他人の人生をまた歪めてしまった」と罪悪感を抱かせるには充分すぎた。――過去にセオドリークが目覚めた起因は、彼女にあるといってもいいのだから。

セオドリークとエイレンティアが出会った頃。少年がまだ別の名を名乗っていた頃。彼は何の力もない、ただの子供だった。

始まりの記憶は、自分を抱き上げようと手を伸ばしている母親の姿。横で微笑ましそうに眺めているのが父親。やや気は強いが心優しい母と、大らかな父の元に少年は生まれた。

「あなたは私の自慢の息子よ」
「おまえは俺の自慢の息子だ」

同年代の子供よりも頭の回転が早かった少年を、二人はよく褒めた。よほど誇らしかったのだろう、近所にも自慢していたほどだ。少年の頭の回転が早かったのは事実だし、更にとても綺麗な顔をしていたから、聞く方も妬みはせず素直に賞賛した。特別裕福でも貧乏でもなく、どこにでもありふれたしあわせな日々。

「今日はねえ、パンを焼いたの。美味しいといいんだけど」
「うん、とっても美味しい。ちょっと焦げてるところも香ばしくていいね」
「もうっそれは褒めてるのかしら」
「褒めてるさ、もちろん。ねえ?」

同意を求めてくる父親に、少年は静かに頷く。すると母親の機嫌は目に見えて良くなり、「明日も焼いちゃおうかしら。そうだ、シチューなんてどうかしら」と満足そうに笑う。

洗い立てのシーツの清潔な香り、母が好んだ花の優しい香り。湯気が立つほかほかのご飯。食卓を囲む笑い声。春の陽だまりの中にいるように、あたたかさで満たされた日々。跡形もなく崩壊したのは、少年が四歳になった年だった。

「どうして、どうしてなの……。どうしてあの女を連れて行くの」

変わりない日々に刺激でも欲しかったのだろうか、他所で女を作った父親は、その女と事故に巻き込まれて呆気なく他界する。だが問題なのは、父親が亡くなった事自体ではなかった。「自分ではない女と最期を迎えた」という残酷な現実は、母親の女としてのプライドをいたく傷つけたのだ。

自分はあの女より魅力がなかったのか、いや何も劣ってはいない、きっと一瞬の気の迷いだ、ごめんと謝ってくれれば許してあげよう。あの人は私を一番に愛してくれているのだから。一番の理解者は私なのだから。だから、あんな若いだけが取り得の女を抱きしめたりしないで。守るように覆い被さったりしないでよ、ねえ。私が二番目みたいじゃないの。

酷い時は一日中恨み言を吐き続けた母親は、誰の目から見ても気が狂っていた。だが、少年にとってはたった一人の大切な母親だった。だいじょうぶだよ、と小さな体で母親を抱きしめ、僕がいるから、だから僕をみて、と何度も何度も必死に訴えた。母親が抱きしめ返す事は、なかった。

美しい少年の容姿は、平凡な顔立ちだった父親とは似ても似つかない。かといって母親とも系統が違う。父親の父親、少年にとっての祖父と瓜二つだった。ただ、光に透ける銀の髪だけは父親とよく似ていた。皮肉にも、母親を余計に追い込む結果になってしまったのだけれど。

「あなたじゃない、あなたじゃないのよ。私が欲しかった人は、あなたじゃないの!」

確かに父親の面影を持つのに、でも同じじゃない。その差異に母親は耐えられなかった。狂おしいまでの愛情はやがて憎しみに変わり、数多くの形跡が残された家にいる事すらも嫌がるようになる。少年の食事を申し訳程度に作るとすぐに出かけ、失ってしまった愛情を埋めるようにして男の腕に寄り添った。

家中からしていたはずの笑い声は、もうどこからも聞こえない。焼きたてのパンのいい香りがする事もない。同意を求めてくる父親も、明日のご飯に悩む母親も、どこを探したって見つからなくなってしまった。それでも少年は諦めなかった。枯れてしまった花が再び咲く事はなくても、自分が良い子にしていれば母親と新しい日々を送る事は出来る。きっといつか、あの頃のように抱きしめてくれる。そう、信じていたのだ。

「久しぶりにお出かけしましょう?」

一年ほど経ったある日、着飾った母親が誘ってくれた。待ちに待った少年が断るわけもなく、喜んで手を取った。伸びた爪が刺さって痛かったけれど、聞いて欲しい事や話したい事が沢山あってひたすらに話しかけた。話しかけたら答えてくれる、そんな些細な事が嬉しくて、母親が何を考えていたのかなんて気にもせずに。

「さあ、着いたわ」

だから、何故こんなにも上機嫌なのかさっぱり分からなかった。

「どうしたの? 大丈夫よ、怖くないわ」

足を止めて一歩も動こうとしない少年に、母親は柔らかく微笑む。見たかったはずの笑顔は、異様に感じられて仕方がなかった。だって、あまりにもこの場所とは不釣合いだ。

「おかあさん、ここに何の用事……?」

『魔女の森に近づいてはいけないよ。恐ろしい魔女が住んでいるから』

それは親が子に何度も言い聞かせる言葉だ。どんなにやんちゃな子も、「魔女の森に連れて行くわよ!」と叱れば途端に大人しくなる。教えてくれた母親が知らぬわけもない。ない、のに森に入ろうとしているのは何でなのだろう。

「待ち合わせをね、してるの。早く行かなきゃ可哀想だわ」
「待ち合わせ……?」
「そうよ。ね、急いで」

少年がどれほど拒否したところで、五歳児の力だ。ぐいぐい引っ張る母親には勝てるわけもなく、奥へ奥へと進んでいく。霧が深くなり、魔物の呻き声がどこかから聞こえても、母親は始終笑顔だった。いっそ薄気味悪いほどに。

「あら……まだいないのね。場所が分からなかったのかしら、困ったひとだわ」
「おかあさん、こんなところで誰と待ち合わせ? 街じゃだめだったの」
「あなたのお父さんになってくれるひとよ。とっても素敵な方でね、それにとってもお金持ちなんだから! ああきっと分からなかったんだわ、迎えに行かなくちゃ」
「は……? ちょっと待って、どういうこと?」
「あら、待つのはあなたのほうよ。あなたはいい子だから、お留守番くらい出来るわよね」

話が、全く噛み合っていない。母はこんな人だっただろうか。受け入れるのがさも当然だとでも言うように、こちらの意見など一切聞かない人だっただろうか。握ったままの少年の手に、じわりと汗が滲む。

「ちょっとだけここで待っててちょうだい。必ず戻ってくるわ」

困惑している息子に気付かぬ母親でもないだろうに、何事もなかったかのように手を離す女性は、少年が今まで見た事もない顔をしていた。

「おかあさん、おいていかないで!!」
「わがまま言わないで。お母さん、聞き分けのない子はきらいよ」

母親にそういった言い方をされて、まともに言い返せる子供などいるのだろうか。少なくとも、少年には無理だった。嫌われたくない、ただその一心で言う事を聞いた。「いい子ね」と頭を撫でてくれた母親の手は冷たかったけれど、振り返ったりはしなかったけれど、絶対に帰ってきてくれるのだと信じて。

そんなもの、裏切られるためにあるというのに。

ぽつりぽつりと、雨が降り出す。一体どれだけの時間が過ぎたのか分からないまま、少年は木の下に座り込んでいた。おかあさん遅いなあ、いつまで待てばいいんだろう、もしかしてまいごになってるのかな、探しにいったほうがいいのかな、でもここにいなきゃ怒られる……寒さと心細さをごまかすように自分を抱きしめて、ただひたすらに待ち続ける。そんな時、木の枝を踏む音が少年の耳に届いた。

「おかあさん!?」

やっと会える! 期待に胸を膨らませて立ち上がると、すぐ近くにいるだろう母親を探す。しかし人影すら見つからず、代わりにいたのは一匹の魔物だった。

「いい? 魔女の森には近づいちゃだめよ。あそこにはこわーい魔女が魔物と一緒に住んでるの。あなたみたいな可愛い子はすぐに食べられちゃうわ」
「僕たべられちゃうの!?」
「ははっ、近づかなきゃ平気さ。それに大丈夫、その時はお父さんとお母さんで守るよ」

そう言ってくれた父親も母親も、傍にはいない。助けてくれる人などどこにもいない。逃げなければ。頭の中ではうるさいくらいに警告音が鳴り響いているのに、足が竦んで動けなかった。

「こ、こないで……!」

哀訴したところで見逃してくれるわけもなく、攻撃的な目をした獣型の魔物は少年との距離を詰めていく。優に三倍の大きさはある魔物が鋭利な爪を振り下ろした時、ああ自分はここで死ぬのだと覚悟した。

「――――インフィ・エーレ」

激しい痛みで薄れゆく意識の中、誰かの声を聞いた。覚えているのは、風でなびいていた黒髪と燃えさかる炎。自分を見下ろす、血のようにあかいあかい瞳。

◇◇◇

……おとうさんとおかあさんが、真っ白な空間で手を振ってる。こっちにおいでよと呼んでる。少年は駆け出して、二人の下へ急いだ。けれどいくら走っても走っても遠ざかっていくばかりで、いつまで経っても二人には届かない。どうしておいていくの。おいていかないで、一人にしないで!

「あっ、目が覚めたのですね」

幼い少女の嬉しそうな声が響く。どこからする声なのかと頭を動かそうとすると、鋭い痛みが全身を襲った。

「う……っ」
「ああっ、無理に動かしちゃだめなのですっ。ひどい怪我なんですからっ。あなた三日も眠っていたのですよ」

少女の言葉を聞いて目線だけを動かせば、腕に巻かれた白い包帯が目に入った。足も同様に包帯だらだけだ。そこでやっと自分が上質なソファの上に寝かされているのに気付く。

「あ、ごめんなさい……。本当はお部屋に運ぼうと思ったのですけど、色々問題があって。ここが一番よかったのです」

視界の端で、テーブルの上に水が入った容器を置いたのが見えた。横には、包帯や薬が詰められた箱もある。どうやら自分は、命拾いしたらしい。

「お、おかあさんはっ!?」

三日も眠っていたのなら、母はどうなったのか。森に戻った時自分がいなかったら、きっと慌てるだろう。もしかしたら自分と同じように魔物に襲撃されて動けなくなっているかもしれない。切羽詰まった少年を察したのか、少女も表情を硬くした。

「お母さんと一緒だったのです? あなたしか見当たらなかったですけど……。ええと、お母さんのお名前は?」
「オリヴィエラ・オルブライトだけど?」
「オリヴィエラ・オルブライト、探知」

少女が名を口にすると、少女の指先に丸い光が生まれる。一度だけ見た事があるルハトとよく似た、淡い幻想的な光。

「大丈夫、お母さんは間違いなく生きてます。でも迷子になってるのかも……っわたし探してくるのですっ。あ、でもその前にあなたのタオル変えてからっ」

忙しなく少年の額に乗せてあったタオルを取り、水を入れた容器につける少女。少年はその時になって初めて、少女の素顔をはっきり確認した。幼い声から想像したイメージと合う、可愛らしい女の子。両親は近くにいないようだから、留守番中なのだろうか。魔女の森で……

「……ここ、どこ?」

てっきり街だとばかり思っていたのだが、それなら普通病院に連れていくはずだ。なのにどうやっても民家にしか見えない。

「森の奥にあるわたしの家なのですよ」
「へえ、森の奥の……は?」
「タオルが温くなる前には帰りますねっ。あ、寂しくないようにこの子をっ。ミリヤっていうのです」

猫のぬいぐるみを枕元に置く少女は、何の害も力もなさそうだ。

「あ、あぶないだろっ。この森にはこわい魔女がいるんだぞ」
「大丈夫なのですよ、魔女はわたしですもん」

あっけらかんと言い放って、楽しそうに笑う少女。その顔は実に晴れやかで、嘘をついているようには見えなかった。

「わたしはエイレンティア・ルーン・アンブローズ。あなたのお名前は?」