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緋色の魔女
ブバルディアの追憶(2)

「わたしはエイレンティア・ルーン・アンブローズ。あなたのお名前は?」

その日、二人は出会った。死が二人を分かつまで、長い長い時間を共に過ごす事になる――――

「……エリセオ・オルブライト」

そういえば魔女相手に名乗るのはご法度じゃなかったか、と少年が思い出した頃には既に手遅れだった。失敗したと激しく後悔する少年とは裏腹に、少女は嬉しそうに笑う。

「良い名前なのですっ。じゃあセオっ!」
「は?」
「わたしは出かけてきますから、大人しくしててくださいね。薬が切れる前には帰ってきますけど、もし熱が上がって辛い時はこのお薬を飲んでくださいです。お水も置いておきますね。あとはえーとえーと、看病に必要なものって何があるです?」
「さ、さあ……。食べものとかじゃないの」
「たべもの! わかりましたっ。じゃあわたしは行ってくるのですよ」
「……いってらっしゃい……?」

反射的なもので返すと、彼女は一瞬動きを止めた後「うんっ」と満面の笑みを見せた。そして奥へと消えていく。その背中は薄れゆく意識の中で見たものと酷似していて、魔女に助けられたのは間違いないらしいと少年は悟った。一体何が目的なのかまでは分からなかったが。もしかしたら、元気になった後にぶくぶく太らせて食べる気なのかもしれない。確か、似たような内容の絵本があった気がする。何であれ、安易に信用はしない方がいいだろう。

人を信じたって、どうせ裏切られるだけなのだから。

◇◇◇

「おはよう、セオ」

大きな赤い目が、自分を覗きこんでいる。驚いて後ずさりたくなった少年だったが、体は言う事を聞かなかった。頭も顔も首も腹部も腕も足も全部が痛くて熱くて、どこを痛がればいいのかも分からない。

「か、体痛くないですか? 寒くないですか? あ、スープ作ったのです。たべませんかっ」
「おかあさんは……?」

縋るように彼女を見ると、目に見えて落ち込む。ああやっぱりな、と心のどこかで納得した自分がいた。

「だ、大丈夫なのです。わたしが絶対に見つけますから」
「……もういいよ、別に」
「え? で、でも」
「おかあさんは、街にいるから。僕がわすれてただけ」
「そ、そうなのです……? なら怪我が治ったら街に送りますね。スープ取ってきますっ」

腑に落ちない、という顔をしながらも、それ以上の追及はせずキッチンへと向かう少女。残された少年は、溢れ出そうになる涙を堪えて奥歯を噛み締めた。

「はい、どうぞっ」

体を起こすのを手伝ってくれた少女は、機嫌が良さそうににこにこと笑いながら温かいスープが入った器を差し出してくる。だが少年は一向に手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。

「どうしたのです? あ、動かすのがきついのならわたしが食べさせてあげますねっ」

嫌がらせなのだろうか。それともさっさと死ねという暗示なのだろうか。スープの色がドピンクなのはこの際気にしない。紫色の葉っぱが浮かんでいるのも気にしない。異臭がしているのも目を瞑ろう。……スープの真ん中でどどん! と存在を主張する巨大な目玉な一体どういうわけだろう。

「はい、あーん」
「いい、自分で食べる……」

残念そうにする彼女から器を受け取って、じっくり眺める。……あちこち視線を彷徨わせる目玉と目が合った。あまりの気持ち悪さに胃液が上がってきそうになり、背中には嫌な汗が流れる。これは、食べ物なのだろうか。

「あ、クルヴォの目玉なのですよっ。栄養満点なのです! きっとセオの怪我もすぐに良くなりますよ」

どうやら一切の悪気なく、純粋な好意らしかった。しかし余計に性質が悪い。目を輝かせながら見つめられたのでは、とてもではないがいらないと拒否出来る空気ではなかった。少年は腹を決め、おそるおそる先割れスプーンを目玉に刺す。予想外に弾力があり深くは刺さらなかったが、零れ落ちるどろっとした緑色の液体がスープと混じっていく。あーら不思議、とってもグロテスク。

「あんたさぁ……」
「う? わたしのことはティアでいいのですよ」
「そういうことじゃなく……ああもういいよ」

文句を言ったところで無駄だろうと、黙ってスープを掬い口に含む。

「……あれ……?」

すっぱい、しょっぱい、にがい、まずい……あらゆる覚悟で挑んだものの、どれにも当てはまらない。寧ろほのかな甘みが美味しいだなんて、そんな。紫色の葉っぱが爽やかな後味をもたらすなんてそんなまさか。

「ど、どうです?」
「おいしい、けど」

分からない、この見た目でどうして美味しいのか分からない。変な薬でも入っているんじゃないだろうな。

「よかったあっ」

おおはしゃぎする彼女を見て、少年の心に亀裂が走る。誰かと会話をしながら湯気が立つご飯を食べるなんて、久しぶりだった。美味しいと言ったら喜んでくれる、たったそれだけの事がずっと遠かった。一人の食事は冷たく、寂しく、悲しかった。

「なんで……」
「え?」
「かわいそうな子供を助けて自己満足に浸ってそれで満足か!? 自分は優しい人だとでもいいたいのかよ!!」

見ず知らずの自分に惜しみなく薬や包帯を使って治療してくれて、タオルが温くなったら変えてくれて、わざわざ食材を選んでくれる彼女は、優しいひとなのだろう。 本当は、感謝するべきだ。けれど、……けれど。――――他人が簡単に与えられるものを母は放棄したのだと、思い知らされるだけだった。

きっと本当は、最初から分かっていた。自分への愛情がとっくになくなっている事も、帰っては来ないだろう事も。本気で父親になる男と会わせる気だったのか、ただの口実だったのかは知らない。だが、母が息子を置いていったのは魔女の森だ。生き残れる可能性など皆無の、魔物の巣窟。

「あんたなんか……っ」

分かっていた。でも認めたくなかった。まだ信じていたかった。嘘でもいいから、心の拠り所にしたかった。幻の愛情に、包まれていたかったのに。

「あんたなんか、きらいだ!!」

どうしてよりにもよって、魔女に壊されなくてはいけないんだ。

「うぅ……っ」

泣き喚きたいのに、その気力すらない。それがまた歯がゆくて仕方がない。今頃母は笑っているのだろうか。お荷物がいなくなったと清々しているのだろうか。……せめてほんのちょっとくらいは、自分を想ってくれるだろうか。

「ねえ明日はシチューなんてどうかしら。野菜をたっぷり入れてね、パンと一緒に食べるのよ。エリオ、あなたも好きでしょう?」

幸せだった日々は、二度とは取り戻せない。

「セオ……」
「さわんな。あんたなんかに、なぐさめられたくない」

触れる間際で拒絶すれば、明らかに傷ついた表情に変わる。少しの罪悪感も抱かなかったわけではないが、そんな事に構ってはいられなかった。いっぱいっぱいで、他人を気にかける余裕などなかった。だからなのだろう、彼女の行動を予測さえ出来なかったのは。

「ちょ、さわんなって……っ!!」

背中に手が伸ばされたかと思うと、彼女の方に引き寄せられた。抵抗してみるものの、抜け出せそうにもない。痛くないから彼女は力を入れてないはずなのだが、よほど自分が弱っているという事なのだろう。或いは、魔法でも使われているのか。

「それでもわたしは、あなたが生きていてくれて嬉しかったのですよ」

白いローブからする甘い香り、薬の臭い。とくんとくんと時を刻む彼女の心臓の音。あやすように背中を叩く手も彼女の声も全部が温かくて、……悔しいくらい、切なかった。

泣き疲れて眠ってしまった後、ふと目を覚ますと隣で彼女が寝ていた。よくよく見れば顔には隈が出来ていて、仕方なく毛布を彼女にもかけてまた寝た。次に目を覚ました時は、抱き枕にされていたが。

「うん、包帯外していいかな。よく頑張ったのです」

それから数日が過ぎて、動き回れるほど回復すると少女は自分の事のように喜んだ。どれだけの薬代がかかったのかと頭に過ぎったが、彼女が勝手にした事なのだからと気に留めしないようにした。

「街に送るっていう約束でしたよね。ええとおうちの場所いえます?」
「……帰る家なんてないよ」
「え?」
「僕を待ってるひとなんて、いない」

母と自分の道は、分かれてしまったのだから。少女は難しい顔で考え込んだかと思うと、名案が思いついた! とでもいう風にぽん、と手を叩いた。

「じゃあこのうちで暮らせばいいのですよっ」
「は?」
「弟……は年離れすぎてるし、息子でもないし……あ、そうだ、「弟子」っ。わたしの弟子になってください、セオ」

彼女の事は、決して好きではなかった。でも何故だかそれはとても魅力的な誘いに聞こえて、気付けば頷いていた。そして、彼女との生活が始まる。

「セオ、パンが焼けたのですよ。ミルの実いっぱい入れてみたのです!」
「いや、入れすぎだろ……」
「あうう……そうですか。わたしって何でこうだめなんでしょう」
「次がんばれば」
「そ、そうですねっ。次回は減らしてみるのです! ということでセオ、あーん」
「ちょ、つっこむなっ。あつっ!」

部屋の片隅で静かにうずくまる事が多かった少年に、少女は飽きる事なく食事やおやつを差し入れた。充分な食事が与えられず、同年代の子供よりも細かった少年だが好き嫌いがあったわけではないので、出されたものを食べているうちに大分肉もついてきていた。太らせて食べる気なんだ、という考えは未だ捨てきれないまま。

「おいしいです?」
「……おかあさんのパンの方が美味しかった」

彼女は弟子という名目で自分を引き取ってくれたけれど、気兼ねなく家にいられるようにという配慮なだけで、薬や薬草などには近付けさせなかった。危険な事もなく、何を望まれるでもなく、ただただ愛情を注がれて過ごした。

「何でこの家鏡ないの?」

ある日、ずっと気になっていた事を尋ねる。

「ううんと、棚の奥にしまったと思うのですけど……使うのです?」
「そもそも何であんたは使わないんだ」
「鏡、あんまり好きじゃないのです。その……見ても自分が映ってるっていう実感がわかなくて」
「ふうん? 変なの」

彼女は顔を曇らせて、しかしすぐに立て直す。

「今度買ってきますね。セオが使いやすそうなの探してみるのです」
「家にあるやつでいいんだけど」
「あ、でもその……さがすのが」
「このきたない家じゃむりだろうな。掃除くらいしたら」
「う、うう……がんばります……」

自分は相変わらず素っ気ない返事ばかりで、ひどい時は八つ当たりを繰り返したけど、彼女は常に一生懸命だった。その度に心は冷えて、絶対に心を許したりはしないと頑なになるだけだったけれど。

後から思い出してみれば、命の恩人に取る態度としては最低だった。売られていたっておかしくはないだろう。だが記憶の中のどこを探しても、その事について彼女から怒られた記憶はない。粗相をしただとか、そんな時は叱られたが、理不尽すぎる八つ当たりに対して彼女が言い返した事はなかった。やさしいひとだったのだ、彼女は。当時の自分はその優しさを受け入れなかっただけで。

だって、幼い子供にとって母親とは世界の全てだった。絶対的な存在だった。失ってしまった時、どうすればいいかなんて分かるはずもなかった。彼女がどんな思いだったのか知ろうともしない、ただの子供だった。

「あれっ?」

キッチンをごそごそと漁りながら、彼女は素っ頓狂な声を上げる。

「なに、どうしたの」
「うー。買い置きしてたと思ったのですけど、見当たらないのです」
「あっそ。てかそのくらい魔法でなんとかならないわけ? あんたってすごい魔女なんだろ」

きょとん、とした顔をして、その後すぐに淀みなく答えた。

「魔法は誰かのために使うものなのですよ」

初めて会った時以来魔法を見る事もなかったのだが、彼女なりの信条があるらしい。

「それにわたし、使える魔法少ないのです……。威力もあんまりないですし」
「あんなに大きい魔物もやしてたのに?」
「……魔物を? いつの話です?」
「僕を助けたとき。あれあんただろ?」

それとも思い違いで、火事だとも言うのだろうか。それならそれで受け入れられる気もする。薄々感づいてはいたが、噂されている魔女と彼女の姿が全く結びつかないからだ。

「多分、わたしではないのです。あ、いえ、あなたを家に連れて帰ったのはわたしなのですけど……魔物を燃やしたのは彼女の方だと思うのですよ」
「意味わかんないんだけど」
「うん、そうですね。実はわたしにもわからないのです」

おどけた風に笑っていたけれど、今にも泣き出しそうに見えた。妙に居心地が悪くて、強引に話題を変える。

「足りないのって、なに。僕が買ってくる」
「え? ええと……ってセオ一人で行く気ですかっ。だめです、危ないのです、許可できませんっ」
「買い物くらいできるよ。あんたはその間片付けたら」
「う……っ。で、でも本当に危ないのですよ。世の中良い人ばかりじゃないんですからっ! 魔物だっているしっ」
「だからっていつまでもあんたに頼りきりじゃよくないだろ。何もできない人間にしたいわけ」

正論で返せば、彼女は押し黙る。

「こ、子供は甘えていいのですっ」
「あんただって子供じゃん」
「わたしは六十歳以上生きてるのですよ。立派な大人です!」
「……だれが大人?」
「わたしがっ」

両手を腰に当てて、ない胸を張る彼女は誇らしげだ。そういう仕草をする時点で大人とは言い難いと気付いているのだろうか。

「……うっそくさっ」
「ええっ。ほ、ほんとなのですよ! 魔女や魔法使いは外見にほとんど変化が出ないのです」
「じゃあ絵本でよく老人に描かれるのは何で?」
「うーんと、その方が威厳が出るからとかっ」
「やっぱり嘘くさい」

ばっさり切り捨てれば、「あうう……」と瞳に涙を溜める。しょうもない嘘をつく性格には思えないが、信憑性がなさすぎてどうしようもなかった。

「わたしちゃんと大人なのに……」
「はいはい、認めるから。そのかわり、ついてくるなよ」
「で、でも……。うー、わかりました。”はじめてのおつかい”は大事だって、本で読んだことありますしね」

自分より精神年齢が低そうな少女に子供扱いされて正直なところむっときたが、なんとか抑える。口にしようものならまた反対されそうだったからだ。

「でもいいですか、セオ。街の近くまではわたしが送りますからねっ。一人で森を歩くのだけは許可できません!」
「わかった、それでいいよ」
「じゃあえーとお金とお買い物リストと、これを」

ポケットから何かを取り出し、手を広げて見せてくる。

「笛?」
「迷子防止に作ったものなのです。帰る時は吹いてください、迎えに行きますから」
「うん」
「何かあった時も吹いてくださいね! あ、そうだ、首にかけるといいのですよ」

そう言って、長い紐が首からかけられる。服越しのはずなのに、白い笛はひんやりと冷たかった。

「や、やっぱりわたしも」
「いやだ」
「うう……ほんとのほんとーに、気をつけてくださいね。じゃあ準備はいいです? 飛びますよ」
「いいけど、飛ぶって?」

彼女は茶目っ気たっぷりに笑って、何かを呟き始める。一体なんだろうかと呆然としていると手を差し出されたため、何気なく重ねる。すると足元に魔方陣が浮かび上がり、あ、と思った瞬間には景色が変わっていた。

「……森の、入り口?」
「街まで飛んじゃうと誰かに見られるかもですから。さ、いきましょうっ」

転移魔法、というやつなのだろうか。自分が体験する事になるとは夢にも思っていなかった。普通の子供なら感動の一つでもするのかもしれないが、どうにも何の感情も湧いてこない。結局彼女とは相容れないのだなと、ぼんやり思っただけだった。

◇◇◇

「ふう……」

無事に買い物も終え、一息つく。笛を吹こうかと思ったものの、直前で止めた。魔法で彼女にだけ届くならいいが、周囲にも聞こえる場合は迷惑すぎないだろうか。辺りを見渡してみると、見事に人、人、人の山だ。人通りの多い市場なのだから当然だけれど。試しに吹いてみるにしろここじゃだめだ、と少年は歩き出した。

(街くるのもひさしぶりだ)

彼女と暮らし始めて随分と経つが、基本的にずっと家の中にいた。彼女が滅多に外出しなかったせいでもあるし、母に遭遇する可能性があるからと拒んでいたせいでもある。客を呼び込む元気の良い声や露店から漂う良い香りが懐かしくなって、少し寄り道しながら独特の空気を楽しんだ。後ろをつけられているなど気付きもせず。

「ここならいいか」

人もまばらな公園に辿り着き、服の下に隠していた笛を取り出す。だが頭部に鈍い痛みが走り、叶う事はなかった。

「やっぱり……上等な……」
「運が……」

誰かの話し声が、聞こえる。気になって目を開ければ、二十歳前後の男性三人が視界に入った。だれだ、と口にしようとすると埃を吸い込んでしまい、咳が止まらなくなってしまう。相手も気付いたらしく、愉快そうに口角を吊り上げた。

「よぉ坊ちゃん、お目覚めかい?」

ああ、彼女の言う事をもっと真剣に聞いておけばよかった。なんて考えたところで、もはや今更だ。

埃くさい上にカビくさい部屋は、蜘蛛の巣すら張られている。高いところにある窓が唯一なのか、ほとんど光も入ってこない。散らかり放題になっていた自分の家も、彼女の家も、まだましな方だったんだなと後ろで両腕を縛られながら思った。生ごみなどはなかったから不潔ではなかったし、彼女自身片付けられないのを自覚していたようでリビングは汚さないように注意もしていた。少年に宛がわれた二階の部屋も、少々掃除するぐらいで済んだ。彼女の部屋はひどい有様らしいが。

「ガキのくせして冷静なんだな。それとも状況が分かってないだけか?」
「……僕捨て子だから、とれるお金なんかないよ」
「はっ、こんないい服着てやがる捨て子なんかいねぇよ。ほら坊ちゃん、大人しくおうちに手紙書こうか?」

首元にナイフが当てられる。息を呑んだのは確かだが、恐怖よりも先に「やっぱり高い服なんじゃないか!」と彼女への文句が浮かんだ。誘拐などされる羽目になるなら、強く跳ね返せばよかったのだ。これまた今更だけれども。

「世話になってる人にもらっただけ。でも子供だからあんまりお金もってないよ、たぶん」

多分、とついてしまったのは言い切れるだけの自信はなかったためだ。森の奥に引きこもって自給自足をしている彼女の生活水準はそう高くないように思うが、服はいいものを着せようとしたり鏡を買い換えようとしたりとたまにおかしな行動を取るのである。

「ち……っ外れか」
「まあこんだけ綺麗な顔してりゃ高値で売れるだろ。ガキが好きな金持ちの老人とかにな」
「世の中、おかしな性癖の奴もいるもんだよなあ。俺はこいつが女だったらよかったんだが」
「幼女趣味かよ! お前も充分おかしいじゃねーか!」

ぎゃははは! と下品な笑い声が薄暗い廃墟に反響する。嫌悪感や苛立ちが芽生えたが、一向に恐怖は感じなかった。……だって、魔物に襲われた時の方がずっとこわかった。おかあさんと叫んでも助けてくれる人はいない、自分が死んだところで誰も気付かない、ひとりぼっちのまま息耐える方がよっぽどこわかった。少なくとも今は、一人じゃない。ああでも、彼女はどうするのだろうか。

「聞くに耐えないな」

どこかで聞いた事のある低い声が、重苦しく響く。

「なんだお前……っどうやって入った!?」
「面倒だったんでな、鍵を溶かした。言い訳は聞かない、さっさとソレを返してもらおうか」

長いロッドを持って不機嫌そうに靴音を鳴らす彼女は、反論を許さない力強さを持っていた。

「どうしてあんたがここに」
「しょうもない連中に捕まるガキに答えてやる義理はない」

彼女はにべもなく切り捨てて、両腕を縛っている縄をほどくためにしゃがみこむ。だが複雑な結び方をされていたのか、「ちっ」と舌打ちをした後に燃やしてくれた。指先から炎が生まれるという不可思議な現象に、放心状態だった男達も我に返る。

「なんだ、今の……っ!? お前まさか魔女か!」
「さあな。そうだと言ったらどうする?」
「こりゃいい。高く売れるぞ!」

盛り上がる男達とは反対に、彼女は静かに微笑む。間近で目撃した少年は、ぞわりと全身の毛が逆立つのを感じた。

「嫌なら目を瞑っていろ」

少年にだけ聞こえる音量で呟いてから立ち上がり、背を向ける。解かれている長い髪がなびき、いつか見た背中と被った。

「機嫌が悪いんでな、手加減はしてやれない。……潔く燃えろ」

――――多分、わたしではないのです。あ、いえ、あなたを家に連れて帰ったのはわたしなのですけど……魔物を燃やしたのは彼女の方だと思うのですよ

赤々と燃えさかる炎の熱さ、肉が焼ける強烈な臭い、断末魔の呻き声、叫び声。それらを肌で感じながら、エイレンティアという少女の言葉の意味を実感していた。 目の前のひとは、彼女であって彼女ではない。でもきっと、彼女でしかないのだろう。

「立てるか」

事を終えた後、差し出された手を取る。普通ならば叫びだしてもおかしくない状況にも関わらず、少年は妙に落ち着いていた。少女に至っては、顔色一つ変えていない。さらさらと灰になっている男達の亡骸は放置して、二人で廃墟から出た。外はすっかり暗くなっていて、長い間気を失っていたのだと分かる。

「あ、あの……ごめん」
「私に謝罪はいらない。あの子が探していたから付き合っただけだ」
「あの子?」
「私達を生み出した人、オリジナル、基本人格――と説明したところで通じないだろう? お前が普段接している、気弱で可愛らしい方のエイレンティアだよ」

淡々と述べられても言いたい事の意味が分からず、少年は首を捻る。

「理解しようとしなくていい。お前にはっきり区別されるのも都合が悪いしな。否定さえしなければそれでいいさ」
「あんたってなんか小難しい言い方するんだな……あ」

彼女の右腕の服が破れているのを見つけて、つい声を上げてしまう。本人は今まで気付いていなかったのか、確かめるように触れた手に血がつく。

「ああ……どこかで木の枝にでも引っかけたか。お前ハンカチ持ってないか」
「ある、けど……魔法で治せば」
「私が使うと傷を悪化させるだけだ」

どういうことだよ、と内心突っ込みつつ、ハンカチを手渡す。止血のために腕に巻く彼女を見ながら、そもそも自分が捕まらなければ怪我をする事もなかったのだと後ろめたさがこみ上げてくる。

「……痛い?」
「いや? 私は慣れているしな」

慣れたら、痛みを感じなくなるものなのだろうか。そういう問題なのだろうか。痕が残ってしまったらどうしよう。色々な思いが交錯して、無意識のうちに傷口に手を伸ばす。

「熱い……? おい、お前」

力があれば、守れるのに。そう思った刹那、自分から発せられた光が空に向かって伸びた。

「おい……っ!?」

返事をしなければ。大丈夫だと伝えなければ。でも結局一つも言葉にはならずに、後ろに引っ張られていく体も止められはしなかった。

「せお、せお、せお……っ」

……誰かが、真っ白な空間で泣いている。必死に名前を呼びながら、悲痛そうに顔を覆っている。どうして泣いているのか分からなくて、泣かないでほしくて、急いで駆け寄った。彼女も走り出して、泣きながら抱きしめてくれた。

「うぅん……」
「セオっ!!」

大きな赤い目が、自分を覗きこんでいる。前にも見た光景だ、なんて思っていたら、彼女は少年の胸をぽかぽかと叩き始めた。

「ちょ、なに、」
「せおのばかあああああっ。だから気をつけてねっていったのにっ! 何かあったら笛吹いてねっていったのにっ! そのために作ったのにっ。せおに何かあったらどうしようって、目を覚まさなかったらどうしようって、しんぱ、しんぱいした……っ」

そのまま胸に顔を伏せて、うわあああんっと盛大に泣き出す。まさかここまで大泣きされるとは想像もしておらず、対処法も分からない少年はうろたえる。

「あ、あの、ごめん、ティア」
「しばらくおやつ半分にするんですからっ。抱き枕にしてやるんだからっ。一人で出歩くのも禁止なんですからーっ! せおのばかあああああっ」
「ああうん、ばかでいい、ばかでいいから。心配かけて、ごめん」

中々泣き止まない彼女を宥めるために背中を撫でる。服が濡れて冷たかったりしたのだが、それ以上に心は満たされていた。

自分が良い子ではなかったから、きっともう誰からも顧みられる事はないのだろうと思っていた。いつかは彼女も見捨てるのだろうと思っていた。だから善意を疑って期待などしないようにして、傷つかないですむようにしていた。……でも。

「ごめんなさい、守ってあげられなくてごめんなさい。こわかったですよね、おそろしかったですよね。セオが無事で、よかった……っ」

彼女の涙は本物だったから。だからきっと、自分は大丈夫だ。

◇◇◇

飛んでいた意識を、慌てて引き戻す。起きるのを待っている間にうたた寝してしまっていたらしい。

大体、リンデグレンの性格が良くないのだ。好きなくせに反発してしまうところだとか。後先考えずに物を言ってしまうところだとか。捻くれているくせに素直なところだとか。非常に不本意ではあるものの、かつての自分に似すぎている。余計に気に病んでしまうのは、そのせいなのだろう。

「怪我、セオが治してくれたのですね。わ、わたしが早く治してればよかったのに……っ。怪我なんかしなければよかったのにっ。ごめんなさい、セオ。ごめんなさい」

彼女は何度も何度も謝った。一人で送り出さなければこんな事にはならなかったのにと自分を責めた。だがセオドリークとしては自分が間抜けだっただけだと思っているし、力に目覚めたのも必然だったのだと思っている。あの時目覚めていなかったとしても、恐らく近いうちに力を欲していたはずだ。

「うー……? おはよう、せお」
「おはようございます、お師匠さま」
「あ、あれっもうお昼!? お、起こしてくれればよかったのにっ!」
「ゆっくり休む日もたまには必要ですよ。朝食の残りでよろしければ、すぐに用意しますが」
「うんっ。セオとご飯たべる!」

にこっと笑う彼女の顔色は大分良くなっている。その事に安堵しながら、頭を撫でた。

心理的な傷とはどういうものなのか、セオドリークは身をもって知っている。身体的な傷とは違って目には見えず簡単には癒せない事も、いつフラッシュバックを起こすか分からない事も。手のひらの温度、木々の匂い、背後から聞こえる音、絶望感などが生々しく蘇り、過去の思い出としてではなく今起きているものとして降りかかってくるのだから、精神的な崩壊に繋がる危険性さえある。 だからこそ、交代人格の彼女は自分のみが持っていて抑えている記憶を基本人格に渡してしまう事がないよう接触を避けているのだ。

(……いつか)

彼女が自分を救ってくれたように、いつか。何の陰りもなく笑える日がくればいい。壊れた女性は、二度と見たくはないから。

窓辺に置かれた花が、一枚散った。