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緋色の魔女
不確定な未来の先

深い闇で覆われた森の中、枯れ果てた木に少女が寄りかかっている。腹部に剣が刺さった状態で、荒い呼吸を繰り返しながら命が終わる瞬間を待っている。ごほごほと咳き込む口元を抑えれば、べったりと赤い血がつく。助けを呼ぼうにも体力が足りなくて、誰を呼ぶべきなのかも思いつかなくて、これが報いなのだと諦めた。あまりにも人の命を奪いすぎていたから、まともには死ねないだろうと覚悟はしていた。今までの非道な行いを考えれば、充分すぎる終焉でさえあると思う。

奇襲をしかけてきた男の頭を足で転がし、最期の顔を目に焼き付ける。焼けただれ、自分への恨みが込められた醜い顔。腐臭を漂わせるそれは、足から徐々に魔物に喰われていっている。人間のように合理的な食事ではなく、本能の赴くまま目の前にある獲物をぐちゃぐちゃと食い荒らすだけの行為。終えれば、次は自分の方にくるのだろう。

「死にたいの?」

誰かが、冷めた声で問いかけてくる。

「さあな」
「ぼく、貴方好きだよ。だからここを貴方の墓場にはさせない」

突如現れた一人の魔法使いは持てるすべての力を使って彼女の傷を癒し、消えかけていた命を繋いだ。こんなところで死なせるには惜しいという、たったそれだけの理由で。

「貴方は愚かな人だな」

お互い様でしょう? と彼は左右色の違う目を細めて――――

「ゆめ……?」

エイレンティアが目を開けると、まず最初に肌寒さが身を襲った。ゆらゆらと揺れるカーテンを見るに、窓を開けたまま寝てしまっていたらしい。換気のために開けてそのままだった気もする。閉めなくちゃ、とベッドから抜け出したところで、どんな夢を見ていたんだろうとふと思った。

(ううん……?)

ブルーノがいたような気がするのだが、内容までは思い出せない。何か、とても大事な場面だった気がするのだけれど。忘れてしまったものは仕方がない、と窓を閉め、ベッドには戻らずにローブを手に取る。寝間着の上に羽織り、部屋を後にした。

オレンジ色の灯りがぼんやりと照らすリビングで、お気に入りのティーカップに湯を注ぐ。夜も遅いため他には何の音もせず、静寂だけがエイレンティアを包んでいた。セオドリークが起きてくるまでまだ数時間あるものの、万が一にも起こしてしまわないようにと小さな声で食前の祈りを捧げ、淹れたばかりの紅茶を口に含む。真っ先にくる苦味が強烈で一口しか飲めなかったが。

「うう、おいしくない……」

自分が淹れる紅茶はこうも美味しくなかったのか、と涙が出そうになってしまう。セオドリークの手順を出来る限り真似したつもりだったのだが、足りないらしい。一体彼はどうやって淹れているのだろうか。コツがある、といつか言っていたような気がするのだけれど。わたしって本当にだめだめです、と溜息をついて、テーブルの上に顔を伏せた。

(彼女なら、シンティアなら、上手に淹れるのでしょうか)

耐え難い経験をした時、自分が受けている痛みじゃないから大丈夫、と思い込む事で自分を守るのだと医師は言った。そうやって人格が分かれてしまうのだと。一度分かれると次から次へと分かれるから完全な二重人格はほとんどいない、とも説明していた覚えがある。自分の事のはずなのに、どこか遠い世界の話だった。その「耐え難い経験」が何なのかさえ、分からないのだから。

「お嬢様、紅茶をお持ちしました」
「お嬢様、髪をお結いしますね」

生まれてすぐに親とは隔離され、侍女達によって育てられた。だがそれを寂しいとは感じず、比較対象も持たなかった。外に興味を抱いたら困ると考えていたのか彼女達は外の話はしてくれなかったし、普通とはどんなものなのか知らなかったからだ。絵を描いたりぬいぐるみで遊んだり本を読んだりして、窓の外を眺めながら過ごす日々。不満はなかった。なかったはず、なのだ。

「あなたなんか――――」

「っ!!」

背後に誰かの気配を感じて、勢いよく振り返る。黒い影がいくつも見えてはっと息を飲むが、瞬く間に消えてしまった。慌てて周囲を見渡してみるものの、どこにも見当たらない。それも当然だ、ここに入って来られる人間はいないのだから。きっと自分の気のせいだったのだと、胸を撫で下ろす。大丈夫、恐れる必要はない。大丈夫、大丈夫。何度も何度も言い聞かせ、乱れていた呼吸を整えるために大きく空気を吸っては吐く。数回繰り返しようやく落ち着いた頃、テーブルの上に零れた紅茶が視界に入った。

「ひっかけちゃったのですね……」

拭かなくては、と布巾を手に取り、丁寧に拭いていく。じわりと染み込んでいく熱や香り、色と一緒に、自分の心も閉じ込められていくような気がした。

……思い出せない事が、いくつもある。朝と夜は何を食べたかちゃんと覚えているのに昼は覚えていなかったり、壊した覚えのないおもちゃが壊れていたり、いつ天候が変わったのか分からなかったり。その度に侍女に問いかけては不審がられ、小さく傷ついた幼い日。いつからか、誰かに相談するのはやめてしまった。聞かない方が良い事なのだと悟って、無理に取り繕った。記憶の穴を上手く埋められず、余計に距離を置かれるばかりだったが。

ブルーノとの出会いに関してもそうだ。終戦して何十年か過ぎた頃に彼が会いに来た時、初対面だと思った。だが彼は以前にも会った事があって、もう一度会いたかったから訪れたのだと語った。もっと早く来たかったが、筆頭魔法師としては国が落ち着くまでは動けなかったのだとも。しかしエイレンティアには未だ心当たりさえない。

(きもち、わるい)

ずきずきと頭が痛んで、奥底から吐き気が上がってくる。欠けている記憶について考えるとひどく気味が悪くておぞましくてたまらなかった。自分は、何がそこまで悲しかったのだろう。何が苦しかったのだろう。もうひとりの自分を生み出して役目を押し付けてまで、何から逃げたかった? 自分の事なのに、どうして分からない。

見覚えのない少年が、じっとこちらを見つめている。あなたはだあれ? と尋ねたら、彼はためらいがちに口を開いた。

(いい香りが、する……)

薔薇の匂いが混ざった、優しくて少し甘い香り。沈んでいた意識を段々と浮上させると、食材を刻む包丁の音が耳に届いた。どれほど求めたところで決して得られなかった、家庭の温もり。誰が用意してくれているのだろう、とエイレンティアはしょぼしょぼと眠たい目を擦ってその人の背中を見た。

「せお?」

彼が好んで着る、シンプルな装飾の黒いローブ。白銀の長い髪。細身ながらも引き締まった体つき。呼びかけに気付いて振り返ってくれた彼は、澄んだ青い瞳でこちらを見ていた。

「おはようございます、お師匠さま。寒くはありませんか?」

穏やかに微笑んでくれる彼はいつも通りで、本当にいつも通りで、何故だかとてもほっとした。自分のいるべき日常はここにあるのだと、疑いもなく思えた。きっと彼からは癒しオーラが出ているに違いない。だってこんなにも安心出来るのだから。

「大丈夫なのですよ。ありがとう、セオ」

自然と満面の笑顔になっていたのだろう、彼はやや不思議そうな顔をした後に笑い返してくれた。

「わたしも手伝うのですっ」
「有難うございます。ですがゆっくりされていていいんですよ。顔色が……」
「平気なのですよ。ええと何したらいいです?」
「では、サラダ分の野菜を刻んで頂いてもいいですか?」
「うん、もちろんっ」

かけられていたブランケットを綺麗に畳んで、椅子の上に置く。自分の物ではなかったから――自分の物なら香水ではなく薬品の臭いがするので分かる――作り終えたら彼の部屋に返しに行こうと思いながら。そもそも、一体いつの間に寝てしまっていたのだろうか。紅茶も拭き終わっていなかったような気がする。その事実に気付いたエイレンティアは焦り、セオドリークに声をかけた。

「あ、あの、セオっ」
「どうされましたか?」
「わたし、紅茶こぼしたままで……」
「ああ、片付けておきましたから心配ありませんよ。お師匠さまは火傷されませんでしたか?」
「だ、大丈夫なのです。でも……」
「でも?」

――――どうして彼は、嫌な顔一つしないのだろう。それどころか、先程からずっと気遣ってもらっている。本来はエイレンティアがそうすべき立場であるにも関わらず。

「ううん。ありがとう、セオ」

もっと大人にならなくては。彼に迷惑をかけないように生きなくては。これ以上、誰かの人生を自分のせいで歪めてはいけない。エイレンティアは心の中で密かにそう決意する。彼女を見たセオドリークは物言いたげにしていたが、鍋が吹き零れる音を聞いてそちらに視線を移した。

これ以上、とは何を指していたのか、答えは出ないまま。

◇◇◇

「あらん、珍しい二人組に会ったわねぇ。相変わらずいい男だわぁ」
「わぁぁ、お久しぶりですぅ。お話する機会がぁなくてぇ、寂しかったんですよぉ」

街に出て薬を売り終わった帰り、やけに間延びした口調の二人に話しかけられた。セオドリークは咄嗟にエイレンティアを自身の背中に隠し、エイレンティアは顔だけを出して探るように二人を見る。するとばっちり目が合ってしまい、彼女本人も無意識のうちに体を強張らせてしまう。そそくさと隠れ、彼の服を握り締める。だって、得体が知れなすぎたのだ。

「ちょっとぉ、何よその反応。いっつもふてぶてしいくせにぃ」

睫は長く長く伸び、チークやルージュは何度も塗り重ねられ、元々濃い顔立ちが際立つ。着ているドレスの形、色、装飾品など、全てが流行を意識したもので、爪先までもが完璧に彩られていた。……百九十cm近い大柄で筋肉質の男では、何もかもが台無しだったが。

「やーねぇ、言い返しもしないの? アナタ、変なものでも食べたぁ?」

話し方は、女性そのもの。マンダリンオレンジ色の短い髪をはらう手つきもしなやかだ。だが声は野太く、少し枯れ、とてもではないが長時間聞いていたいものではなかった。

「……こんなところで何をされているのですか、ユリウス殿下」
「えっ」

セオドリークは彼を無視して、隣にいる人物に話しかける。だが声を上げたのはエイレンティアだけだった。

「社会見学ですよぅ。それにぃ、ユリィってぇ呼んでくださぁい。ユリウスなんてぇ可愛くない名前やだぁ」

相手は、否定しなかった。それどころか、別の呼び方を勧めた。……ゆりうすでんか、ユリウス殿下。いやまさか、なんで、と混乱しながら、エイレンティアは改めて確かめた。

はちみつ色のふわふわとした髪を短く切り揃え、大きなエメラルド色の瞳は好奇心で溢れている。要所にリボンやレースをあしらったシフォンドレスの裾は惜しみなく布を使って広がっているが、色味が淡いのもあって派手さは感じない。化粧も控えめで、元々の素材の良さを生かしてあった。触れたら壊してしまいそうに繊細な愛らしさは、例えるならまるで、春の妖精。

「フォルテーヌ様もフォルテーヌ様ですよ」
「アタシに言われても知らないわよぉ、この王子が勝手についてきたんだもの」
「だってぇ、いつもお傍にいたいんですぅ。マチルダさまは堂々と生きててぇ、魅力的ですからぁ、ユリィもそうなりたいんですよぅ」

第三王子ユリウスの噂は、エイレンティアでも耳にした事があった。母親の身分が低かったのと上に正妃の息子二人がいたため周囲に放置され、いつからか女装をしだしたのだと。それがまた似合っており、誰を貶すでも困らせるでもなかったので王も許していると。御年十一歳になられるはずだ。

「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません、ユリウス殿下」

エイレンティアはすっと前に出て、ワンピースの裾を持ち上げながら頭を下げた。優雅さに満ち、文句のつけどころもない完璧な動作だったが、ユリウスは目を丸くして大げさなまでに驚いていた。

「……あのぉ、やっぱり変なものでも食べました?」

なんともまあ失礼な台詞ではあったものの、王族相手に反論するわけにもいかない。エイレンティアが「大丈夫です、ご心配ありがとうございます」と微笑めば、彼はますます信じられないものを見る目になった。

「ではお師匠さま、行きましょうか」
「えっ、で、でも殿下をお城までお連れした方がいいのでは……」
「私達は誰にも会いませんでしたよ」

ね、と笑いかけるセオドリークは、完全に本気だった。加え、さり気なくまたエイレンティアを隠す。しかし残念ながら、見逃してくれる二人ではない。

「せっかくの出会いをなかったことにするなんて、やーですよぉ。ここでぇ会ったのもぉ、何かの縁じゃないですかぁ。あ、マチルダさまにぃ占ってもらったらぁどうですぅ?」

(マチルダ……ええと、マチルダ・ルーン・フォルテーヌ様ですよね。予知の魔法使いだったはずです)

得意とする魔法は占い。百発百中といえる腕から、多くの貴族や王族が彼の顧客らしい。相当の変わり者だとは聞いた事があったものの、こういった意味だとは思いもしなかった。この場合は魔女と呼ぶべきだったのかもしれないが。

「そうよぉ、今日は特別なんだからぁ。庶民でもアタシの素晴らしい占いに触れられるステキな日よぉ!」
「……もしやと思いますが、冗談ではなかったんですか」

セオドリークが疑わしげに尋ねてしまったのも、無理ない事だった。台の上に紫の布をかけ、占いの露店を出すのはいい。周囲をごてごてに装飾するのもまあいい。ドレスで着飾った二人と相まって質素な景色からは随分と浮いているが、許容範囲だろう。一回の占い料が破格の高さでなければ。

「う……? あ、た、高い……っ」

エイレンティアがつい漏らしてしまうほどの値段だった。貴族や国家魔法師なら難なく払えるだろうが、ここは平民が住む市民街。その日を過ごすだけで精一杯の人だっているのだ、一回の占いにこれだけの額を払える人間はほとんどいないだろう。

「あらやーねぇ、安いくらいだわぁ。薄汚れて価値もない庶民がアタシの占いを受けられるのよ? 慈悲深さに感謝してほしいわよぉ」

流石とでもいうべきか、極自然な上から目線だった。とはいえ、これが標準的な国家魔法師ではあるのだが。

「で、お客は来たんですか」
「それがぁ、まだなんですぅ。きっとぉ、マチルダさまの素晴らしさが伝わってないんですねぇ」
「当然の結果だと思いますけどね。ユリウス殿下、城へ連絡させて頂きますよ。護衛騎士まで撒いてどうするんですか」
「えぇー。ちゃんとぉ、置き手紙のこしてきましたよぅ」

いじわるぅっと唇を尖らせるユリウスは可愛らしく、どこからどう見ても女の子に見える。容姿だけではなく、仕草にも気を配っているようだった。声変わりがまだ来ていないというのも大きいのだろう。どういう対応を取るべきなのか、エイレンティアは困惑したままだったけれど。……彼女なら。シンティアならば、何を言ったのだろうか。

「ところで、アナタはいつまで庇われてるのよぉ? なぁに、ほんとに頭でも打ったの? うじうじと鬱陶しいからやめてほしいわぁ。誰もアナタになんか興味ないわよ」
「緋色さんのぉ、こんなお姿は初めて見ましたぁ。シアンお兄さまが見たらぁ、びぃっくりしますねぇ」

彼らは、エイレンティアとシンティアの区別がついていないのだ。だがそれも当たり前だった。事情を把握しているセオドリークやブルーノ以外は、二重人格だなんて思いつきもしないだろう。少し体調でも悪いか、演技をしている程度にしか取らない。かつての侍女達がそうであったように。

(……でも二人にとってのわたしは、シンティアの方なんだ)

じゃあ自分は、どうしたらいいのだろう。どこに立てばいいのだろう。ろくに魔法も使えない、守られてばかりのちっぽけな自分は。

「なによぉ、黙りこんじゃって。用がないならさっさとどいてくれるぅ?」
「あっ、い、いえっ占ってくださいですっ」
「お師匠さま!?」
「はぁーい。お金払ってくれるなら大歓迎よぅ。ほら、ここにいれてねぇ」

白い箱を指差すマチルダに頷き、財布を取り出す。手持ち分では払えなかったから、財布の中で空間を繋げて家に置いてある貯金で補った。エイレンティア自身がこつこつと貯めてきた分だ。

「お師匠さま、お断りしたって大丈夫なんですよ?」
「ううん、わたしが占ってほしいのです。だって腕は確かでしょう?」
「それはまあそうですが……。では、私も払います」
「やです。絶対やです」

きっぱりと拒否すれば、彼は困ったような顔をする。申し訳なさを抱かなかったわけではないが、今回ばかりは引く気になれなかった。彼に出してもらうのは違うと思ったのだ。

「わぁーい、甲斐性なしーのへたれーですねぇ。守護さんってぇ、あんなにもてもてなのにぃ、緋色さんには適わないんですねぇ」
「いつも通りよぉ。アタシがいくらアピールしてもつれないんだからぁ」
「へぇー。ユリィはいいと思いますよぉ? それだけ顔がよければぁ、ちょーっとくらい中身がアレでも生きていけますぅ。でもぉ、ネリーお姉さまはぁどこが好きなんでしょうねぇ。あの人、夢見がちなところがあるからなあ」

やや呆れた風に姉の事を話すユリウスは、どこか大人びて見えた。

「まぁネリーお姉さまもぉあれで悪い人ではぁないのでぇ、嫌わないであげてくださいねぇ」
「ええ」

そう返すセオドリークは笑顔ではあったが、声音は冷めているのをエイレンティアは聞き逃さなかった。ユリウス殿下の言うネリーお姉さまというのは、ひょっとしなくてもフィーネリア殿下の事だろうか。好かれてる、とは初耳だ。シンティアの事が分からないというのは、彼女といる時の彼も分からないという事なのだから、知らない情報があっても当然ではあるのだけれども。

エイレンティアは小さく息を吸い込み、湧き上がる不安をごまかすように胸元の服をぎゅっと握り締める。意を決して再び前へ出ると、箱の中にお金を入れた。

「はぁい間違いないわね。で、何を占ってほしいのぉ? 恋愛? 仕事? ああそれとも、弟子について? それは贅沢な悩みというものよぉ。悩むくらいならアタシにちょーだい」
「え、えっと、将来について……です」
「ふぅん……?」

彼は訝しげにエイレンティアを眺め、しばらくして「まあいいわ」と呟く。

「んじゃぁ、この紙に名前と生年月日書いて。ああ勿論、真名じゃないと効果ないわよぅ」
「え……」
「知られたくないのなら四つ折にでもしてから渡せばいいわ。アタシは中身は見ない。そうねぇ、この王子に誓ってもいいわよぉ。アナタの弟子に嫌われたくもないしねぇ」
「ユリィ、ばぁっちり聞きましたぁ」

ためらいはあったものの、そこまで言うなら大丈夫だろうと紙を受け取る。上質な紙には、何かの文字で枠が描かれてあった。

(うんと、真名を書くのは久しぶりなのです)

ティアフルール・エレン・アンブローズ。その名を呼んでくれる人はいなかった。家族と会う機会はなかったし、侍女達は常にお嬢様と呼んでいたからである。誰にも呼ばれる事がないまま国に売られ、魔方陣のペンダントと新しい名を押し付けられた。馴染むまで時間がかかったが、今となっては緋色の魔女と囁く人の方が多い。

何にも容赦せず、一切の迷いもなく命を奪う緋色の魔女。自分の知らない、もう一人の自分。

「か、書けたのです」

言われた通りに四つ折にし、マチルダに手渡す。受け取った彼は水がたっぷりと入った容器につけた。どうするのだろうとエイレンティアが見つめていると、真剣な顔で詠唱を紡ぎ出す。

金色の光が水の上で走り、文字を描いていく。それは円となり、更に小さな円を中に作り、五重にもなる。エイレンティアには専門外の魔法だったため、何がどうなっているのかはよく分からなかった。だが目を背ける事なく見届けた。やがて眩いまでの光が弾け、気付いた時には全ての水がなくなっていた。

「あらん……? アナタ、ちゃんと真名書いたんでしょーねぇ?」

不可思議な事に湿ってはいない紙を取り出し、マチルダは首を傾げる。

「か、書きましたですよ」
「にしちゃあぶれてるわねぇ……。読みづらいったらないわ」

読みづらい、という事は占い結果が書かれているのだろうか。後ろから見る限り一部分だけ濡れているようだから、そこが文字になっているのかもしれない。

「灯りのない部屋で、あなたはパズルを組み立ててる。でもいつまで経っても完成はしない。だってあなたは完成図を知らないのだから。手探りで形を知るしかないのだから。あなたに語りかける声を、無視してはだめよ。彼らはあなたにパズルを作った作者を教えてくれるでしょう。どうして作ったのか教えてくれるでしょう。どんな形なのか教えてくれるでしょう。彼らの言葉を聞き入れ、理解し、正しい順番にパズルのピースをはめなさい。一つは白の無垢、一つは青の悲嘆、一つは緑の沈静、一つは赤の激情。完成したパズルを壊すか、そのままにするか。 いずれくる選択の時、あなたはどちらを選んでもいけないわ。でなければ、また消えてしまうから」
「ぱずる……?」
「あなたが大切にしたいと願うのならば、本当に大事なものは何なのか考えるべきよ。きっとあなたのすぐ近くにある。そして沢山触れ合いなさい。語り合いなさい。活路が開かれるわ」

占い自体は、抽象的だった。けれど、どこまでも正確なように思えた。自分自身について、痛いほどに言い当てられている気がしたのだ。

(がんばらなきゃ……)

失ってしまったものは二度とは取り戻せないのだとしても、もうなくしてはいけない。犠牲にもしたくない。じわりと手に汗を滲ませていると、誰かにそっと触れられた。

「一人で抱え込まないでくださいね、お師匠さま」

あたたかくて、おおきな手。やさしい、やさしい声。ふいにとても泣きたくなって、でも唇を噛んで必死に堪えた。泣きたくはなかった、涙にして流したくはなかった。

……彼が必要としているのも、シンティアの方なのだろうか。 浮かんだ疑問を口に出す勇気なんかなくて、今顔を見られたら見透かされそうな気がして、温かさに身を任せて俯いていた。

「ねぇ、アタシ達がいるの忘れてなぁい?」
「ですですぅ。空気は読むべきですよぅ」
「え……っ、あ、ご、ごめんなさいですっ」
「いいですけどぉ。前から思ってたんですけどぉ、緋色さんってぇちょっと独りよがりっぽいですよねぇ。他人を排除してるっていうかぁ。そういうの、どうかと思いますよぅ」

独りよがり。そんな風に言われたのは初めてだった。ユリウスが指したのはシンティアについてのはずだが、自分にも当てはまるのかもしれない。人とどう接すればいいのか、悩んでばかりいるのだから。

「ありがとうございますっ、ユリウス殿下」
「はぁ……どういたしましてぇ……?」

でもこの時の自分は結局何も分かってはいなかったのだと、後になって思い知る事になる。閉ざされた過去も、自分が選ばなくてはいけない未来も。向き合うべき、想いも。