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緋色の魔女
鏡の中の灯火

「むむむ……」

鏡に映っている自分と目を合わせて、すぐ逸らす。いやそれじゃいつもと一緒です、と反省し、勇気を振り絞ってまた見つめる。だらだらと汗を滲ませながらも数秒保ったが、やはり厳しかった。

「ううう〜……」

深夜、リビングの壁にかけてある鏡と格闘しだしてどれだけの時間が過ぎたのだろう。苦手を克服しようと試みたはいいが、見つめては逸らす、の繰り返しだった。

「ただ見ようとするからだめなのかもですよね……。うん、お掃除しましょう」

拭いている間にもしかしたら、と柔らかい布と水を取りにいく。さあいざ拭こう! としてみたものの、どこが汚れているのか全く分からないぴかぴか具合だった。どうやら彼はこういった細かいところも毎日きちんと掃除しているらしい。指紋一つないのだから、見事としかいいようがなかった。と同時に己の情けなさを思い知らされ、エイレンティアは盛大に肩を落とす。

(……セオ、大事にしてくれてるのですね)

そろりと顔を上げ、鏡の枠に触れる。彼を引き取ったばかりの頃、どうして鏡がないのかと問われて購入したものだ。彼はよく使ってくれたようだったが、エイレンティアは今日まで可能な限り避け続けていた。――映っているのが本当に自分なのか実感がもてず、おそろしくて仕方がなかったからである。これは誰、と叫びたくなる恐怖には勝てなかった。

(何でわたしってこうなんだろう……)

ずっと我慢し続けていたが、瞬きをする度にひどい頭痛が襲う。胃がきりきりと痛む。立っているのも辛くなって、その場に崩れ落ちてしまった。次から次へと溢れていく涙を、どうしても止められない。何故自分が泣いているのかも分からないまま、声を漏らさないようにするだけで精一杯だった。

「全部あなたが悪いのよ。わたしの幸せは、あなたが奪ったの!」

誰かが、悲痛そうに喚き続けている。こんなはずじゃなかったのにと、消え入りそうな声で呟いて。……あの人は、誰だった?

真っ暗で先の見えない迷路に迷い込んで、ぐるぐると同じ道を往復する。結局、その日は一睡も出来なかった。

「お師匠さま、ちゃんとお休みになられましたか?」

朝顔を合わせたセオドリークに、間髪を容れず尋ねられた。一瞬どきりとしたエイレンティアだったが、なんとか取り繕う。

「うん、たくさん寝たのですよ。寝過ごしそうになっちゃったのです」

心配をかけたくはなかったし、自分自身の問題にこれ以上巻き込みたくもなかった。彼の人生は彼だけのもので、自分が歪めていいわけはない。もっとしっかりしていれば、彼が辿る道は違っていたはずなのだから。

「お師匠さま……」

しまった、言葉を間違った。ひどく傷ついた顔をする彼に罪悪感が芽生え、言い直すべきだと他の言葉を慌てて探す。だが残念ながら、人付き合いをほとんどしてこなかったエイレンティアの語彙は多くはない。最近読んだ小説の内容を一生懸命に思い浮かべ、使える表現はないかと捻り出そうとする。しかしその前に、彼の手が頬に触れた。

「ふぇっ!?」

予想外すぎる行動に、変な声が出てしまう。労わるようにそっと、彼の長い指で目の下を撫でられる。

「……くまが」
「熊さん?」
「いえ、隈が出来ています」
「えっ」

そういえば、朝になってから自分の顔を確かめていなかった。なるほど、だから彼はあんな表情になったのだ。見え見えの嘘をつかれて良い気分がするはずもない。

「近頃、あまり眠れていないのですね」
「い、いえっ昨日はたまたま……」
「では、リビングで寝られていた日もたまたまですか? 眠れなかったから紅茶を淹れていたのですよね」
「あっ」

少し前も彼に発見されていたのだから、苦しすぎる言い訳だった。自分は喋れば喋るほど墓穴を掘るタイプなのかもしれない、とエイレンティアは口を抑える。今更もう手遅れだったが。

「……責めているわけでは、ないんです。お師匠さま。そういう時は私を起こしてくださっていいんですよ。話し相手くらいにはなれますから」
「で、でも寝てるセオの邪魔をするなんて……」
「師が苦しんでいる時に一人寝ている弟子など、弟子失格ですよ。貴方の力になりたいという、私の我侭です。叶えてはくださいませんか?」

エイレンティアが負い目を持たないですむように自分の我侭だと言っているのだと、鈍い彼女にも分かった。以前から引っかかっていた部分ではあるのだが、どうにもこうにも気を遣われすぎではないだろうか。彼の生来の優しさといえばそうなのだろう。だが恐らく、それだけではない。やや言葉遣いが荒かった少年が現在の性格になったのは自分のせいなのだとエイレンティアは自覚していた。彼と離れた数ヶ月。原因は、そこにある。

「寝られるように、努力するのです。ふわふわもこもこの羊さんをひゃっぴき数えて、安眠効果のある香りをぬいぐるみにつけて、後はえっと、あ、運動したらぐっすり眠れるかもですよね! お散歩の時間を増やすのです。だから大丈夫ですよ、任せてくださいなのです」

彼は自分といる時、無理をしている。……だってシンティアの事を話す時の彼は、年相応なのだから。

「分かりました。では私も散歩に付き合わせてくださいね」
「魔物もいないですし一人で平気ですよ。そうだ、わたし朝ごはん食べたらちょっと出かけてくるのです。予定とかなかったですよね?」
「ええ。ですがどちらへ?」
「雑貨屋さんです。な、何を買うかはおとめのひみつです!」

小説内で主人公の女の子が使っていた台詞を言うと、彼はぽかんとした顔をする。あれ珍しいと思っていたら、今度は柔らかく笑った。

「はい。乙女の秘密ですね、聞きません」

復唱され、エイレンティアの頬にかあっと熱が集まる。恥ずかしい事を言ってしまったのだとようやく気付いたからだ。

「あうう……今のは忘れてください……」
「可愛らしいだけでしたが、お師匠さまがそれを望まれるのなら」
「とってものぞむのですー……」

勢いだけで押し切るものではない。後悔したところでどうしようもないが、せめて次はやめようと固く心に誓った。未だくすくすと笑われているのだから、尚更。

「詮索はしませんが、私も付いていかせてくださいね」
「わ、わたしだけでも平気なのですよ」
「私も買いたい物がありますので。それに、体調の優れないお師匠さまをお一人には出来ません」
「でも……」
「私が熱を出した時、安静にするようにおっしゃいましたよね? 下がるまで傍にもいてくださいました。ですから私も同じように貴方を心配しているだけですよ」

過去の自分の言動を引き合いに出されると反論も出来ず、エイレンティアはゆっくりと頷く。体調を崩したのは紛れもない自分なのだから、何かを言える立場でもなかった。彼が言う事はもっともだ。

「あの、セオ、ごめんなさい……」
「どうして謝られるのですか?」
「急に言われても困るでしょう? 明日でも大丈夫なのですよ」
「貴方より優先する用事なんて、私にはありませんよ」

ね、と微笑んでくれる彼はどこまでも優しい。だからこそ、もう甘えたくはなかった。彼のためにも、自分のためにも。

◇◇◇

りんりん、と鈴を鳴らしながら扉を開け、中へと足を踏み入れる。まず最初に、花の香りがふわりと鼻をかすめた。いらっしゃいませーという和やかな声を聞き、周囲をぐるりと見渡す。開店してそう時間も経っていないためか、客は二人しかいなかった。

レターセットやメモ帳、ペンなどの小物が低めの棚に置かれている。壁棚には、いくつものぬいぐるみが並べられていた。目の部分がボタンになっていたり男女でお揃いの服を着ていたりと、なんとも可愛らしい。オレンジを基調とした店内は明るく、広さはあまりないながらも、きちんと整理整頓されているためか窮屈さは感じない。親しみやすさも覚えるのだから、近頃評判だというのも納得だ。心の中で色々と考えながら、エイレンティアは目当ての物を探す。

(あ、この辺りなのです)

見つかってよかった。更に言うなら、他の客とは離れた場所にあるのもよかった。一息ついたのも束の間、肝心な事に気がつく。

(わたし、どんなものを買うか決めてなかったのです……)

手鏡を買おう、と思い立ったまでは問題なかった。リビングにある鏡は大きく、顔が全部しっかりと映るから小さめのサイズから始めた方がいいのではないかと思ったからだ。でも、それだけ。二つ折りにするかとか。丸か四角とか。色合いとか。目の前に置かれている数々の手鏡を見て、無計画すぎたのを実感させられた。人気商品を買っておけば無難ではあるだろうが、店員に尋ねるのは難易度が高すぎる。涙が込みあがってきそうになるのを堪えて、左から右へと品物を眺めた。途中、一つの鏡の前で視線が止まる。

(わあ、かわいいのです)

吸い寄せられるように手に取り、凝視する。楕円形の木枠は右上と左上に妖精が象られていた。全体的に小さめで繊細な作りなため、鏡の部分を上手く引き立てている。値段もお手頃だ。これにしよう、と即決し、レジへと持っていく。

「お買い上げありがとうございます。最近人気の商品なんですよー。可愛いですよね」

はい、と精一杯の笑顔を作って、店を後にする。ばくばくとうるさい心臓に触れ、何度か深呼吸して落ち着かせた。たかだか買い物くらいでこうなってしまう自分の、なんと情けない事だろう。笑顔が引きつってはいなかっただろうか。挙動不審になってはいなかっただろうか。相手に悪意などないと分かっているのに、身構えてしまうのを止められない。……人は好きだけど、怖い。それでも買えてよかったと、紙袋に視線を落とす。ふふ、と口元が緩んでいる自分がいるのを知っていた。

落とさないようにしっかりと抱きかかえ、いつもの待ち合わせ場所である噴水に急ぐ。予想外に早く終わったから――普段のエイレンティアならばもっと悩んでいる――まだ彼も来ていないはずだ。待たせてばかりなのは良くないし、今日は自分が待とう。そう思っていたのに、遠くからでも彼の存在が確認出来た。頭一つ分飛び抜けているし、さらさらと長い銀髪はとても目立つ。

(セオって、自分の買い物後回しにしてたりしないですよね……?)

いやまさか、と否定しつつ、彼ならやりかねない。機会があれば聞いてみようと近付くと、一人ではないのに気がついた。

(わわわ)

怒られるような事はしていないのに、隠れられるものなら隠れたい。と思うより早く、咄嗟に木の影に隠れてしまった。女性に声をかけられている彼を見かけた時、どういう反応を取ればいいのだろう。

(セオかっこいいですもんね……)

こっそりと二人を観察する。女性は二十代前半くらいだろうか。髪を派手に巻き、化粧も濃いめに塗られている。大きく開いた胸元は豊かに揺れていた。思わず見てしまった自分のものと比較してしまい、勝手に落ち込む。子供っぽいのを常々気にしてはいたが、こうも違うものだとは。そうこうしているうち、女性が残念そうな顔をしたのが分かった。セオドリークの方は人当たりの良い笑みを浮かべてはいるものの、目は笑っていない。温和な雰囲気を醸し出しているのに、どこか冷たささえ感じられた。ほんの僅かな隙もない鉄壁さに、女性も離れていく。

(そういえばわたし、セオが女性に応えているのを一度も見たことがないのです……)

フィーネリア殿下についても断っている様子だったし、女性に興味がないのだろうか。それとも好きな人がいるのだろうか。自分がくっついているせいで、その人の下にいけないだけかもしれない。……どうして今まで、考えもしなかったのだろう。容易に思いつく話だったはずなのに。

「かくれんぼですか、お師匠さま」
「ひぁっ!?」

背後から話しかけられ、びくっと肩が震える。おそるおそる振り返ると、遠くにいると思っていたセオドリークが立っていた。

「申し訳ありません、驚かせるつもりはなかったんですが」
「せ、せお、い、い、いつの間に……!?」
「私が横を通っても気付かれていなかったので、つい。何か考え事をされていたんですか?」

まさに考え事をしていたのだが、しかし背後に回られるほどぼうっとしているのはいかがなものだろうか。一応自分も緋色の魔女ではあるのだから、大変によろしくない。散々人の命を奪った結果、恨みを持つ人々だっているのだ。もうちょっと気配に敏感になろうとエイレンティアは心に決めた。

「す、素敵なものに巡り合えて満足だなーって思ってただけですよ。セオは、無事買えましたです?」
「はい」

彼はそう言って、持っていた紙袋をちらつかせる。中身も入っているようだったから、後回しにしたという事はなさそうだ。ほっとしていると手を差し出され、癖で自分の手を重ねる。先程の冷たい印象はどこにもなく、包み込んでくれる暖かさで満ちていた。

「美味しくて人気だというパン屋を教えて頂いたんです。ここから近いですから、少し覗いてみませんか?」
「パン屋さんっ。ぜひなのです」

楽しみ、と期待に胸膨らませながら歩き出す。たわいない話をしながら角を曲がると、誰かが飛び込んできた。

「わっ!?」
「!? くそ……っ」
「お師匠さま!」

体勢を崩しそうになったエイレンティアをセオドリークが瞬時に支える。大事には至らなかったが、弾みで手にしていた紙袋を落としてしまった。

「大丈夫ですか、お師匠さま」
「う、うん。ありがとなのです」
「ごめんなさい……。お怪我しませんでした?」

走ってきたのだろう、ぶつかった相手は息を乱しながら尋ねてきた。ココアブラウン色の髪を肩まで伸ばし、同じ色の瞳は心配げにこちらを見ている。……あれ、とエイレンティアは違和感を覚えた。

「わたしは大丈夫なのです。え、えっとお怪我ないですか」
「わたしも平気ですわ。ごめんなさい、急いでいて……」

年頃は十八、九歳くらいだろうか。着ているワンピースは一目見て上質だと分かるもので、苦労とは無縁そうに真っ白な手、おっとりとした喋り方と相まって深窓の令嬢に見える。――――先程「くそ」と言ったのは、間違いなく彼女であったはずなのだが。

「あら、この紙袋は貴方のものかしら」
「え? あ、鏡……っ!」
「鏡?」

隣でぽつりと呟いたセオドリークを気にかける余裕もなく、エイレンティアは彼女から受け取った紙袋の中身を取り出す。どうか、という淡い希望は、文字通り粉々に砕かれた。

「あうう……」

数え切れないほどのひびが入った鏡は、見るも無残だ。これが二つ折りなら話は違ったのかもしれないが、そんな事を言っても仕方がない。このままでは危ないとポケットからハンカチを出し、丁寧に包み込んでいく。幸いにも袋の中で割れたため足りない箇所はないし、家に帰ってから修復魔法をかければ済むだろう。さほど複雑でもないから、自分の魔法でも復元出来るはずだ。修復魔法は「元の状態を知っている事」が条件となるため、今回はセオドリークに頼むわけにもいかない。

「ごめんなさい、わたしがぶつかってしまったからですよわね。どちらで買われたのかしら? 弁償致しますわ」
「こ、このくらいなら直せますからお気になさらなくていいのですよ」
「直す? 器用なのねえ」

心底感心したように、彼女は言う。誤解を解くべきか悩んだが、それはやめておいた。詳しく説明するという事は魔女だと白状するも同然だからだ。

「では何か別のお詫びをさせてくださいな。そうだわ、わたしの屋敷に……」
「ナターリエ様!」

少女の言葉を遮るようにして、怒声交じりに名が呼ばれる。

「ちっ、アイツここまで追ってきやがった……!」

低く漏れた一言は、確かにエイレンティアとセオドリークの耳に届いた。びっくりして彼女を見ると、不快そうに顔を顰めている。とてもではないが、深窓の令嬢が作る表情ではなかった。その荒さはまるで、少年のような――――

「大体、ぼーっと歩いてるアンタが悪いんだよ! ああくそっ、文句は後だ。ぶつかってごめんな、じゃあ!」

少女はそれだけ言い残して、走りづらそうにワンピースの裾を持ち上げながら去った。呆気に取られていると、後ろから追いかけてきたらしい必死の形相の男性に話しかけられる。

「すみません、ナターリエ様……ココアブラウン色の髪をした女性はどちらの方向に行かれましたか」
「え? あ、え、えっと、あちらに」

エイレンティアは条件反射で指差す。すると男性はびしっと姿勢を正し、右手を胸に当てて頭を下げた。

「有難うございます、感謝致します」
「は、はい……」
「では、失礼致します」

もう一度頭を下げ、逃げる少女をまた追いかけていく。

「な、なんだったんでしょう……?」
「脱走した貴族のご令嬢と追いかける執事、といったところではないでしょうか」
「あ、やっぱりセオもお嬢さまだと思ったのですね」
「ええ、着ているものが上等でしたから」

セオドリークは何気なく答えて、落ちていたもう一つの紙袋を拾う。エイレンティアを支える際、彼が放り投げたものだ。

「あ……っ、わ、割れたりしてないです?」
「はい、大丈夫ですよ。入っているのは本ですから。……ん」

道端に落ちていたものをセオドリークが拾い、エイレンティアは横からしげしげと見る。銀細工で出来た、薔薇のブローチだった。中央には深い色をしたガーネットが嵌め込まれている。

「彼女のものでしょうか? あ、金具が壊れてしまってるのですね……」
「そのようですね」
「巡回してる騎士さんに預けたらいいでしょうか。ファミリーネームが分かれば返しに行ったのですけど」
「情報が不足していますからね、仕方ありません。お体はお辛くありませんか? 何でしたら私が渡してきますが」
「ううん、一緒に行くのですよ」

二面性を見せた少女、ナターリエ。彼女に抱いた違和感の正体は、次に出会った時に解ける事になる。