Design:
緋色の魔女
落とされた爆弾、カウントダウン

袋状にしていたハンカチの結び目を解き、中身ごと机の上に置く。目を瞑り、あちこちに散らばる思考を一点に集中させる。元の状態を常に想像しながら、ゆっくりと詠唱を始めた。風が窓を叩く音も、水の揺らぎも、一枚の葉が地面に落ちる重みさえ、邪魔は許されない。ほんの僅かな意識のぶれが、失敗を呼ぶからだ。

「――――リーア・ペイア」

緋色の魔方陣が浮かび上がり、光が弾けて、消えた。

「ふう……」

小さく息を吐き出して、ハンカチの上に置かれているものを手に取る。修復出来たそれを見て、エイレンティアは安堵の笑みを作った。

「うん、大丈夫です」

雑貨屋にて購入し、予期せぬ出会いで粉々に割れてしまった鏡。万全の体調で挑もうとしたため数日経ってしまったものの、修復魔法をかけた今はすっかり元通りだ。妖精の羽の部分が少々歪んでいる気もしたが、このくらいならば許容範囲だろう。

「うう、でもセオなら完璧に直しますよね……」

彼が唱えているところを何度か見た事があるが、ほとんど詠唱をしない上にどこか余裕も感じられた。いっぱいいっぱいなエイレンティアとは大違いだ。完成度に関しても文句のつけどころがない。この類の魔法を彼に教えたのはエイレンティアだったというのに――シンティアは本気で攻撃魔法しか使えないらしい――何故こうも差が出てしまったのだろうか。よほど自分には才能がないのだろうか。

「だ、だめです卑屈になってはだめです!」

ぶんぶんと首を横に振り、先程までの考えを吹き飛ばす。シンティアにもセオドリークにも到底届かないのは今更だ。せめて、自分に出来る事を精一杯に磨かなくては。多くの人々に嫌われたこんな自分でも、役に立てる事はきっとあるはずだから。よしっ、と握り拳を作った瞬間、ぐうう……とお腹が鳴った。

「あうう……」

締まらなさっぷりに、穴があったら入りたくなってくる。ここにセオドリークがいないのが救いだった。彼なら「早めに作りますね」と笑って流してくれただろうけれど。

本当の意味で大人になれるのはまだまだ先かもしれない、と溜息をつかずにはいられなかった。

「お師匠さま、無事修復出来ましたか?」

リビングに行くと、いつもより早い時間に昼食を作っていたセオドリークに話しかけられる。

「……セオ、まさか聞いていないですよね?」
「? 何をでしょう?」

部屋の扉は閉めていたから、たかだかお腹の音がここまで届くわけはないし、ただの偶然なのだろう。つい疑ってしまうタイミングの良さだったが。「なんでもないのです」と返すと、彼は状況が上手く把握出来ないといった顔をしていた。

「えっと、鏡はちゃんと直ったのですよ。ちょっと歪んじゃいましたけど、使うのはどうせわたしですから」
「そうですか、よかったです。割れ物だとは知らず、落としてしまって申し訳ありません」
「ううん。あの時セオが支えてくれなかったら、わたし倒れちゃってたのですよ。ありがとうなのです」

心の底からの感謝の言葉を伝えると、彼はふわりと微笑む。いつかブルーノが「セオくんって色々整いすぎてて人間味薄いよねー」と言っていた事があるが、目の前にいる彼は血色も良いし良い香りもするし当然ながら一人の人間にしか思えない。一体どこを見てそんな事を言ったのだろう、と考えた時、ふと噴水前のワンシーンが脳裏によぎった。

あの時のセオドリークは、笑顔ではあったが目が全く笑っていなかった。他人と一線を引き、淡々と返すだけ。会話までは聞こえなかったものの、始めから用意されている台詞を言っただけのようにも見えた。ブルーノが指したのも、そういった一面の事なのだろうか。とすると、以前から女性に対してああだったのだろうか。

「セオって、女性に興味ないのです?」
「……はい?」

突拍子もない問いに、セオドリークは間抜けな声を出してしまう。この人は、何を言い出すのだろうか。女性に興味がないのか、女性に興味がないのか……頭の中で何度も繰り返し、質問の意図を掴もうとする。だがいくら考えても、彼女の思考は読めなかった。

「私に男色の気はありませんが……」
「え? あ、ち、ちがいますっ。そういう意味じゃないです! 好きな人はいないのですかと聞きたかっただけです!」

エイレンティア自身も言葉足らずだったのに気付いたようで、大慌てで付け足す。なるほどそういう事か、と合点がいったが、その後すぐに途方もない衝撃が彼を襲った。それはつまり、セオドリークの想いが通じていないばかりか、他に好きな人がいてもおかしくないと思われたという事だ。彼女からしてみれば何気ない疑問だったのだろうが、ショックを受けるなという方が無理である。

「せお?」

不思議そうに名を呼ばれ、彼方に飛んでいた意識をなんとか引き戻す。

「イーズデイル様が何か仰ったんですか?」
「う? ルノは関係ないですよ。ただわたしが気になっただけなのです」
「そうですか……」

気にかけてもらえた事を喜ぶべきか、嘆くべきか。究極の二者択一にとうとう答えは出なかった。親にも愛されずに育った彼女は、他人から与えられるものに耐性がない。彼女自身は愛そうとするけれど、愛されるとは最初から考えもしていない。だからセオドリークには惜しみない愛情を注いでも、同じ分だけ返されると戸惑う。自分が受け取っていいものではないと強い申し訳なさを抱く。そんな彼女の中に、恋愛感情は存在しない。……分かっては、いるのだ。もうずっと前から。

「いつか振り向いてくれたら、いいですね……」
「え? セオ、今なんて……」
「さあ、お師匠さま。ご飯が出来ましたよ。昼食にしましょう」
「う、うん」

――――あれ、ごまかされた? てきぱきと用意するセオドリークは至っていつも通りだったが、エイレンティアにはどこか様子が異なっているように見えた。何でだろうとは思いつつ、彼を手伝って食器を並べていく。

彼のご飯は、美味しい。彩り豊かだし栄養面も配慮されているし昨夜作ったものを朝にまた出したりもしない。今スプーンで掬っているスープも、基本的には薄味だが野菜の旨みがたっぷり出ていて非常に美味しい。とろとろになるまで煮込まれた肉がこれまた良い味を出している。どうやって作っているのだろう、と真剣に考えてはみるものの、さっぱり分からなかった。

「お師匠さま、気になる事でもありましたか?」
「ううん……隠し味なにかなあって」
「ああそれは、エマニの葉をすり潰して入れてあるんですよ。お気に召しましたか」
「うんっ、とってもおいしいのです!」

にこっと笑って言うと、彼はほっとしたように目を細めた。

「ああそうだ、薔薇が綺麗に咲いたんですよ。天気も良いですし、今日のティータイムは外でどうでしょうか」
「わあ、素敵なのです!」

薔薇は鑑賞もいいけどお茶にしたりジャムにしたり石鹸にするのも楽しいですよね、とエイレンティアはたわいない話を続ける。小さい頃の味気ない食事とは大違いだ。

石造りの離れ部屋に隔離され、一人淡々と食事を取る日々。一緒に食べてくれる人はいなかった。話しかける相手もいなかった。侍女達は壁に控えてはいたが、それだけだったから。本当に時折、姉が訪れてくれたけれど。

(あれ……?)

賢く、美しく、将来を期待されていた五歳違いの姉。彼女は何のために訪れていたのだろう。間違いなく理由があった気がするものの、記憶のどこを探しても見つからない。何を喋っていたのかも思い出せない。決して口数は少なくない人だったはずなのだが。

「お師匠さま?」
「あ、えっと、なんでもないのです。お菓子何作ろうかなって考えてただけなのですよ」

自分が思っている以上に、覚えていない事が多すぎる。昔の話だからと済ませるのは容易いが、それだけが原因ではない気がした。胸の中のもやもやを解消するように食事に集中し、食べ終える。彼に礼を言ってから皿をまとめ、キッチンへと持っていくために立ち上がった時、テーブルの上に残されたものに気がついた。

(これ、セオのです)

たった一枚の小皿。 気に留めるようなものではないし、代わりに持っていけばいいだけの話だ。そういう日もありますよね、と自分の皿に彼の分を重ねる。セオドリークは最後まで気付かなかったため、流石に首を傾げずにはいられなかったが。

◇◇◇

「わああ……!」

見事に咲いた大輪の花に、エイレンティアは感嘆の声を上げる。赤、ピンク、白、青、黄……色も品種も異なる数え切れないほどの薔薇は洒落たデザインのアーチに絡み、整備された道の両端にも植えられ、陽がよく当たる中央には真っ白なテーブルと椅子が置かれている。いつかエイレンティアがアンブローズ家の庭に咲いていた薔薇が好きだったと漏らしたために、セオドリークが手間隙かけて維持しているローズガーデン。客を招くばかりか、入場料さえ取れる出来栄えだった。

「すーっごくきれいなのですっ。わあ、良い香り!」

きゃっきゃっとはしゃぎながら、あちこち見渡す。

「喜んで頂けましたか?」
「うんっ、本当にありがとう、セオ!」

年に二回の剪定、害虫駆除、季節毎に水やりの頻度を変えるなど、ただでさえ細かい手入れが必要となる花だ。これだけの数を育てるのは並大抵の苦労ではない。エイレンティアも積極的に手伝いはするものの、「私が趣味でやっている事ですから」とやんわり断られる事も多かった。料理や掃除もそうだ。後者に関してはエイレンティア本人も彼に任せた方がいいと自覚してはいるけれども。

「少し歩きましょうか」
「うんっ」

彼の手を取り、ぽかぽかとした日差しを浴びながら時間をかけて歩く。風に乗って、嗅ぎ慣れた香りが届いた。

「あ、そうだ、セオ。ちょっとだけ薔薇をもらってもいいです?」
「勿論かまいませんよ。何かに使われるのですか?」
「あ、えーと……」

香水用です、と言おうか悩んで、口を噤んだ。自分は薬品の臭いなのに彼は良い香りな事に危機感を覚えたとか、彼に声をかけていたお姉さんを見て羨ましくなっただとか、素直に白状するには羞恥心が勝ってしまったのである。

「……香水の調合なら私がしますよ?」
「えっ、な、なんで分かったのですっ」

驚いて彼を見ると、にこやかに笑っていた。

「むう……。セオ、かまかけましたね?」
「いえいえ、まさかそんな事はしませんよ」
「ならいいのですけど……。あっ、でもシンティアって薔薇の香り平気です?」

肝心な事を忘れていた、と尋ねる。彼女はあまり出てこないようだったけれど、好みではない香りを身にまとうのは遠慮したいだろう。正直なところ未だに理解出来てはいないし、心から受けいれているかと聞かれると即答する自信はなかったが、かといって嫌がらせをしたいわけではない。

「エイレンティアさまがする事に、あの方は文句をつけたりはしないですよ」
「で、でも彼女にも好みがあるでしょう? 教えてほしいのです」
「そうですね……どちらかといえば、爽やかな香りの方がお好きなようです。甘めのものは避けたいようですね」

ここには絶対に近付きませんしね、とは黙っておいた。シンティアは一本の薔薇を眺める分には問題ないらしかったが、密集するのは嫌った。そのため、彼女がローズガーデンに足を踏み入れた事はない。

「ええとじゃあ爽やかを意識して……。柑橘類とか混ぜればいいでしょうか」
「大丈夫だと思いますよ。お師匠さまが作られるのでしたら、私もお手伝いします」
「うん、今回はお願いするのです。わたしじゃ分からないですしね」

いっそ二つ作るのもいいかもしれない、とエイレンティアは思案する。未だ出会う事のない彼女が気に入ってくれればいいと願いながら。

ローズピンク色のお茶が、とくとくと注がれる。人工的なものではない柔らかな香りが充満し、浮かび上がる花びらが優雅さを演出していた。二人揃って食前の祈りを捧げ、エイレンティアの方が先に口に含む。

「……う?」

一口飲んで、違和感に気付いた。あれ? と思っているとセオドリークも口に運び、彼は眉間に皺を寄せる。

「すみません……砂糖が多かったですね」

そう、彼が言う通り少し甘かったのだ。とはいえ本当に少しで、気にするほどでもない。ああ手が滑ったのだろうと、簡単に流せる範囲だ。だが、セオドリークがこんな些細なミスをするのは滅多にない事だった。

「申し訳ありません、すぐに淹れ直します」
「ううん、すごくおいしいのですよ。わたしのマフィンは甘みが足りなかったですから、よかったら一緒に食べてくださいなのです」

嘘偽りない言葉を返しつつ、一体どうしたのだろうと頭に巡らせる。小皿を置き忘れたのも、砂糖を入れすぎるのも、普段の彼からは想像出来なかった。どこに欠点があるのだろうと探してしまいたくなるくらい、常に隙がないのだから。

「あ、あのセオっ。もしかして体調が悪いのです?」

熱があるのかもしれない。言い出せずに無理をしていただけかもしれない。慌てて聞いてみるが、彼は緩く首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。すみません」
「謝らなくていいのですよ。あ、じゃあ何か考えごととかしてたのです?」
「いえ……そういうわけではないです」

歯切れの悪い返事は、説得力に欠けていた。笑顔にも力がなく、心ここにあらず、といった風だ。

「何かあったら、遠慮なく言ってくださいね?」
「はい。有難うございます、お師匠さま」

そうは言っていたけれど、夕食では野菜の輪切りが繋がっていたり、今度のお茶は苦かったり、また皿を忘れたりと、いよいよ以っておかしかった。

(鏡も汚れてる……)

寝静まった頃、こっそりとリビングの壁にかけてある鏡の前に立つ。掃除の邪魔にならないようにと髪を三つ編みにして、きゅっ、きゅっ、と拭きながら、今日一日のセオドリークの言動を思い出していた。

そもそも、いつからおかしかったのだろう。朝は特に気になるところはなかったはずだ。失敗に対し、腹を立てているわけではない。責めたいわけでもない。彼以上の失敗を繰り返しているのに、そんな事が出来るわけもない。食欲旺盛の人がほとんど食べなかったら誰もが気にかけるように、ただただ心配なだけだ。

記憶を掘り起こしてみて、ふと気付く。彼が冷静さを失ったのはある一言の後からだという事に。

「あああ……っ!?」

――――セオって、女性に興味ないのです?

――――はい?

そうだ、あの時の彼はぼんやりとしていた。どうしたのだろう、と名を呼んだほどなのだから。さあっ、とエイレンティアから血の気が引いていく。

「ど、ど、どうしよう……!!」

あれはきっと、聞いてはいけない事だった! 人には誰しも触れてほしくない部分があるというのに、無遠慮に触れてしまったのだ。どうして、そんな事をしてしまったのだろう。どうしてもっとよく考えて喋らなかったのだろう! 彼に迷惑をかけたくないと思いながら、余計な事しかしていないではないか。時間を戻せるなら、あの時の自分を止めたい。でもそれは、どうやったって叶わない事だ。

「お師匠さま、今日も眠れなかったのですか?」
「うわあああんセオごめんなさいいい」
「え?」

ちゃんと謝らなければ。許してはもらえなくても、誠意は見せなければ。

「あ、あの、お師匠さま、どうされました?」
「もう聞いたりしないのですーっ。ふれたりしないのですーっ。だからごめんなさいいいい……」
「な、泣かないでくださいお師匠さま。お師匠さまは何もしていませんよ」
「だってわたしが……う?」

自分は今、誰と話している? 我に返ったエイレンティアが顔を上げると、困ったような表情を浮かべるセオドリークと目が合った。あれ、とぺたぺたと触る。見た目よりもずっとがっしりとした体は、幻覚などではありえない。本物だと認識した瞬間、勢いよく涙が溢れた。

「お、お師匠さま!?」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい、セオ」
「私などに謝罪は必要ありませんよ。どうされたのですか?」

やさしい、どこまでもやさしい声で問いかけられる。

「せおがへんだったの……っわたしがさしでがましいことっ、言っちゃったからでしょう?」
「差し出がましい事……? ああ」

納得したように呟かれ、ああやっぱり、と次から次へと涙が零れていく。滲む視界の端で彼がひどく取り乱したのが見えたが、止められはしなかった。悪いのは自分なのに、泣くのは卑怯だ。そうしたら、優しい彼は怒れない。許さなくていいのに、許してしまう。……だから。泣くな、泣くな、泣くな。

「ご、ごめんなさ……っ」

分かってはいるのに、そう思えば思うほど胸が苦しくなって、まともに謝罪の言葉を紡げもしない。せめてこんな顔を見せないようにと手で覆って、唇を噛み締める事しか出来なかった。

「違うんです。あれはその……少し動揺しただけです。お師匠さまにそういった事を聞かれるのは初めてでしたから」
「どう、よう……?」
「男にとって、好きな人の話題とは恥ずかしいものなんですよ。なのでごまかしてしまったんです。すみません」

どこか言いづらそうにはしていたけれど、嘘をついているようには見えなかった。エイレンティアには当然ながら男性の気持ちは分からないから、そういうものなのだろうかと自分の中で噛み砕く。その間に唇を撫でられ、痛みがすうっと引いていった。手つきは慈愛に満ちていて、また頬が濡れる。

「どうかもう泣かないでください、お師匠さま。貴方に泣かれるとどうしたらいいのか分からないんです」
「ううー……ど、どりょくはします……」
「ああ擦っては駄目ですよ。目が腫れてしまいます」

怒ってなくてよかった、とか、いやよくない、とか。いつも慰められてしまう自分の弱さだとか。 様々な感情が入り混じって、爆発して、結局散々泣いてしまった。彼は泣き止むまで傍にいてくれて、ずっと手を握っていてくれた。あまりに優しいから、更に泣いてしまったのは内緒である。

恥ずかしがるという事はひょっとして彼には好きな人がいるのか――という新たな疑問には、随分と後になってから辿り着いた。