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緋色の魔女
冷えた指先を暖めるのは誰ですか(3)

セオドリークにとってエイレンティアは敬愛すべき師であり、この世でたった一人の女性でもある。代わりなどどこにもいない、いるはずもない、愛おしくて仕方がない最愛の人。

だがそれは雛鳥の刷り込みに過ぎないと彼女は一蹴してしまう。狭い箱庭にいたからそう錯覚しているだけだと、外に出ればいくらでも可能性が広がっているのだと、やんわりと突き放す。いくら反発しても、まともに取り合ってくれた試しがなかった。

そうやって繰り返していくうち、気付いた事がある。彼女は恐れているのだと。

ガチャッ

扉が開く僅かな音と不安定な魔力を感じ取ったセオドリークは、やはり今回もか、とベッドから体を起こす。椅子にかけてあった黒いローブを手に取り、部屋を後にした。だから少女を一人にするのは嫌なのだと、頭に巡らせながら。

「風邪を引かれますよ、エイレンティアさま」

小さな背中に向かって声をかければ、びくっと肩を揺らしたのがセオドリークの目に映った。たっぷり時間をかけて振り返ったエイレンティアは今にも泣き出しそうで、ばつが悪そうな顔をしていた。

「せ、セオ……あ、あの」
「そんな顔をなさらないでください、お師匠さま。責めているわけではないんです」

ですから謝罪も必要ありませんよ、と付け足して、少しずつ彼女との距離を縮めていく。極力彼女の奥にあるものに目を向けないようにしているのは、それが忌々しいからだ。こんな夜更けにどうして庭にいるのかなんて、今更もう分かりきっている。

「ここは冷えますから、家の中に戻りましょう?」

自身のローブをそっと彼女にかけ、両膝をつくと目線を合わせて話しかける。セオドリークの眼差しも声もどこまでも優しいものだったが、エイレンティアは何かを言いたそうにしばらく見つめた後、俯いてしまう。小さな手がローブを手繰り寄せる仕草は、ひどく弱々しいものだった。

彼女の心を痛める存在なんて、この世から全てなくなってしまえばいいのに。罪の意識に苛みれるエイレンティアを見る度、セオドリークはそう思って止まない。

「セオ、あの、もう大丈夫……です。手間をかけさせてごめんなさい」
「いえ、私が好きでやっている事ですから。ですが今度からは私を呼んでもらえると嬉しいですよ。大事な時に傍にいられないようでは、弟子失格ですからね」
「ち、ちがいますっ。セオはとっても良くできた子なのですっ。わたしが……っ」
「緋色の魔女だから、ですか?」

セオドリークが核心をつけば、エイレンティアが握っているローブの皺が深くなる。

緋色の魔女。国家魔法師の数がもっとも多いとされる魔法大国、セレディナ国の筆頭魔法師にして、英雄と崇められる女性。多くの功績から彼女を恐れてセレディナ国に戦をしかける者はいない。また、魔女のたった一人の弟子、守護の魔法使いによって城と城下町は魔物の侵入を逃れており、魔女は自身の地位を更に確固たるものにした。

魔女は誰よりも強く、賢く、美しく、恐ろしい。人々の魔女に対する評価はそんなものである。しかし、本当は繊細でか弱い少女なのだと真に理解している者は少ない。

「……わたしの力は、立派なものなんかじゃないのです。だれかを傷つけるばかりで……わかっているのに、わたしには止められない。いつも彼女に押し付けて、わたしは逃げるだけ」

そう吐露するエイレンティアの姿は痛々しく、抱きしめたくなると同時にああやはり彼女も同じ事を言うのだなと切なくもなる。どちらも彼女には違いないのだから、当然と言えるのかもしれないけれど。

緋色の魔女、エイレンティア・ルーン・アンブローズ。彼女には二つの人格がある。普段は心優しい可憐な少女だが、ロッドを握った時のみ威厳に溢れた別の人格が現れるのだ。世間に知られているのはこちらの方だが、本来の人格ではなく、必要に迫られて生み出されたものだった。そうでもしなくては、幼い少女の精神では到底生きていけなかったのだ。

何にも容赦せず、少しのためらいもなく命を殺める、後から生まれた交代人格。その時の出来事は、出生時に持っていた人格である基本人格は全く覚えていない。けれど自分にこびり付く血の臭いも、灯火が失われていく瞬間も、決して忘れられない。だから人の命を奪った夜には必ずこの場所に訪れるのである。ずっとずっと昔に作った、盛った土の上に木で作った十字架を立てただけの簡素な墓の前に立ち、一言謝罪をするために。

「……悔しいですね」

ぽつりと、思わず本音が漏れる。エイレンティアにしてみれば予想外の発言だったのか、目を丸くしてセオドリークを見つめた。視線が絡んだセオドリークは、情けなさそうに笑う。

「だって、そうでしょう? 私と出会った頃お師匠さまは既に緋色の魔女で、そうじゃなかった頃を私は知らないんです。私はそれがとても悔しい」
「ど、どうしてです?」

全てを説明したところで理解を望むのは難しいでしょうね、と心の中で苦い気持ちを抱きつつ、セオドリークはローブを握り締めているエイレンティアの手を自身の両手で包み込む。彼女は元々薄着だったからか、もう随分と冷たくなってしまっていた。

「俺が、貴方の傍にいたなら。絶対に一人にはさせなかったのに。……一緒に、背負ったのに。なんて考えてしまうのですよ」

彼女は今も恐れている。自分の手で誰かを傷つける事を。その結果、一人になってしまう事を。

「だ、だめですっ! セオをあの中に送り込むなんて……っ」

当時の光景を思い出したのだろう、エイレンティアの顔から血の気が引いていく。戦場に初めて放り込まれたのは僅か十歳の時だったというのだから、トラウマになってしまっていても何もおかしくはない。その時受けた彼女の傷は、百年経っても癒えない程に深い。けれど。

「そうですね、どれほど願っても過ぎ去った時間は変わりません。でもね、お師匠さま。これからの時間を一緒に生きる事は出来ます」
「これから……?」
「そうです。私はどんな時でもお師匠さまの隣にいますよ。私はしぶといですから、そう簡単にはいなくなりません。……ですから、どうか一人で泣かないでください」

左手を離し彼女の頬に添えると、親指で涙を掬う。ずっと我慢していたようだが、一度零れると次から次へと流れ落ちていく。こういった時は必ず声を押し殺して泣く彼女を見ていると、やりきれない気持ちが芽生える。少女は、甘え方を知らない。

だからせめてと、少女が泣き止むまで青年はずっと傍にいた。風が木々を揺らす音だけが響き、国の象徴でもある赤い月と青い月がただ見守っていた。

「あの、セオ、今度こそもう大丈夫、なのです」
「それならよかったです。では、そろそろ家の中に入りましょう? 温かいミルクティーを淹れますよ」
「わあ、セオが淹れてくれるミルクティー大好きなのです! あ、でも、だめですっだめなのです!」
「どうかしましたか?」

目を腫らしながらも必死に首をぶんぶんと振るエイレンティアに、セオドリークは不思議そうに尋ねる。違う種類の方がよかったのだろうか? という彼の考えとは大きく異なり、彼女は聞き捨てならない言葉を発した。

「セオはわたしを甘やかしすぎなのですっ。わ、わたし外見はこんなのですけど立派な大人なのですよ!」
「? ええ、お師匠さまが私より年上の方なのは存じておりますよ?」

――――立派な大人と言えるのかは、少々怪しいところですが。その言葉は飲み込んで、セオドリークは何気なく頷いてみせる。子供扱いされたのが嫌だったのだろうかと思ったからだ。

「そ、そうなのです! だから……ああっ! 本を買うのを忘れてしまったのです……」

落ち着いた今になってようやく思い出したようで、エイレンティアはがっくりと肩を落とす。その姿はやはりどこからどう見ても子供だった。

「本、ですか? そういえばお師匠さま、手ぶらでしたね」
「ジェシカさんを追いかけるのに夢中で頭から飛んでたのです……。あうう、お料理の本をたくさん買おうと思いましたのに」
「料理の本、ですか。その様子ですと私に……というわけではなさそうですね」
「もちろんです、セオのお料理はとっても美味しいのです! わたしにですっ」
「有難うございます。ですが、お師匠さまが作られるものも美味しいですよ?」
「だ、だめなのです。ひとりで色々作れるようにならないとセオが……っあ」
「私が、なんでしょう。お師匠さま」

失言だった、と慌てて口を押さえたエイレンティアに、セオドリークはにっこりと笑って見せる。女性なら誰もが見惚れるだろう美しい笑みだったが、後ろめたい事があるエイレンティアにしてみればそんな余裕もなかった。

「わたしが、ひとりじゃ何も出来ないから……。セオが外の世界に出られないのです。だから頑張ろうと決意したのですけど……うう、わたしってどうしてこう駄目なんでしょう」

逃げる道はないと悟ったエイレンティアは、正直に白状する。今度はセオドリークが目を丸くする番だった。

「ひょっとして、近頃お師匠さまが悩まれていたのはそのせいですか?」
「だ、だって……このままじゃいけないと思ったのです。だから……」

段々と声を小さくしながら、ぽつりぽつりと話すエイレンティア。彼女が言いたい内容を把握したセオドリークは、盛大な溜息をつきたくなるのをなんとか堪えた。

彼女は分かっていないのだ、セオドリークの世界はエイレンティアを中心に回っているのだという事を。彼はそれに疑問すら抱かず、幸せと喜びを感じている事を。

(……確かに、隠している部分はありますが。それにしても鈍いですよ、お師匠さま)

しかしそれも含めて可愛いと思う自分は、完全に彼女に参ってしまっている。

「お師匠さま、エイレンティアさま。私は自分の意思でここにいるのですよ」
「で、でも……っそれはわたしが頼りないからでしょう? セオの実力を考えれば、本当はここじゃなく宮廷に仕えるべきなのです。わたしは、いけないですけど……」

エイレンティアを目線を落とし、再びローブをぎゅ、と握り締める。

エイレンティア・ルーン・アンブローズ。セオドリーク・ルーン・オルブライト。数少ない国家魔法師にのみ与えられる「ルーン」の名を持つ二人がこんな場所で生活しているのは、当然訳がある。通常国家魔法師は宮廷に住むのだが、エイレンティアにはその権限がないからだ。

百年前に大戦が終結した際、味方にすら恐れられていたはずのエイレンティアはいきなり英雄と持ち上げられた。立場は一転し、少女を一目見ようと人々が押しかけ、また少女の容姿が整っていたのも手伝って多くの人間が彼女の後見人になりたがった。それは王族ですら例外ではなく、彼女を巡って争いが起きたのだ。そのほとんどが自分の利用価値を考えての行動だと知っていたエイレンティアは、唯一冷静だった当時の宰相の意見を受け入れ、必要な時以外の干渉は禁止するという誓約を取り付けると森に引き篭もったのである。

争いの火種になるくらいなら、自分から一人を選んだ方がずっと楽だった。例えそれが、どれほど哀しい道でも。

「……お師匠さま、エイレンティアさま」

セオドリークは低く囁き、左手をエイレンティアの頬に添え、なめらかな肌をゆっくりと撫でる。少女を慰めるためでもあったし、自分の気持ちをごまかすためでもあった。

少女を捨てた家族が憎いとさえ思う。少女に手を差し伸べなかったばかりか、利用した国には嫌悪を覚える。死して尚、少女の心に居続ける人々は忌まわしい。彼女さえ許すなら、何もかも葬り去ってしまいたい。二人きりの箱庭で永い時を生きられれば、きっとこれ以上ない幸福を手に入れられるだろう。いっそそうしてしまいたいと、セオドリークは心の底から望んでいる。けれど同時に、それでは意味がないのだとも分かっている。本当に手に入れたいものは、それでは手に入らない。

愛している、愛してほしい、愛していたい。どれほど醜い気持ちで埋まっていても、その想いだけは決して色褪せないのだから。その想いがあるからこそ、他の想いが生まれるのだから。

どうか気付いてほしい、けれどこんな汚い自分を知ってほしくはない。矛盾だらけの中、それでもセオドリークは彼女の傍にいたかった。

「せ、せお……?」

セオドリークの様子がいつもと違うのを感じ取ったエイレンティアは、どうしたのかと彼の顔を観察しようとする。しかしそれよりも早く、セオドリークは彼女の額に触れるだけの口付けを落とした。

「ど、どうしたのです、セオ」
「お慕いしておりますよ、お師匠さま」

誰よりも、何よりも、ただひたすらに貴方だけを。
ずっと申し訳なそうな顔をしていたエイレンティアだったが、セオドリークの告白を聞くとぱあっと顔を輝かせた。

「はいっわたしもセオが大好きですよ!」
「……今はそれで納得しておきましょう。そういうわけですから、私はお師匠さまから離れませんよ。お師匠さまが私を破門にでもされない限りは」
「は、はもん……!? あ、ありえませんっ」
「ではずっと一緒ですね、嬉しいです。さて、ミルクティーを飲みましょう? 腕によりをかけて淹れますよ」

セオドリークは音もなく立ち上がり、ズボンについた汚れを気にかける事もなく、エイレンティアに手を差し伸べる。一瞬迷ったエイレンティアだったが、ゆっくりと彼の手を取り、ようやく歩き出した。

冷たい風が二人を襲ったが、二人の心は春の陽だまりのように暖かさで満たされていた。