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緋色の魔女
迷い猫は帰る場所を探して

「きゃあああああっ!」

夕食後、家中に響き渡る悲鳴に、本を読んでいたセオドリークは急いで駆け出す。一階にある彼女の部屋を目指してばたばたと階段を降り、勢いよく扉を開けた。

「お師匠さま、どうしまし……!?」

酷い異臭を感じ、咄嗟に左手で鼻を覆う。彼女は大丈夫なのだろうかと姿を探すと、奥の方に黒髪が見えた。物を壊さないように気をつけながら、距離を縮めていく。

「お師匠さま、ご無事ですか!」
「せ、せおおおっ」
「……おししょうさま?」

はて、見間違いだろうか。視力はいいはずなのですが。

予想外の光景にセオドリークが混乱している中、彼の登場によって安堵したエイレンティアは、しゃがみこんだままわんわん泣き出す。――お師匠さまを宥めなければ。頭ではそう思うものの、行動には移せない。彼がここまで動揺するのは最近ではとても珍しかったのだが、彼女の現状を考えればそれも致し方ない事だった。

「お師匠さま……これ、本物ですか?」
「偽物なんてつけません〜〜っ!!」

何せ、彼女の頭から真っ黒の猫耳が生えているのだから。

「あ、本当ですね。感触が本物です」
「く、くすりの入ったびんをおとしちゃって……頭にびしゃーって……そうしたら、こんなことに……うう」

なるほど、どうやら異臭の原因は床に転がっているフラスコ瓶のようだ。三つあるから、それらが混ざり合ってしまったのだろう。猫耳が生える薬など彼女が作るわけもないし、別の効果を持つ薬が合わさって新しい効果を生んだ、と考えるのが妥当だろうか。冷静に分析しつつも、セオドリークの手は彼女の猫耳から離れない。……やばい、かわいい。

「せ、せお、くすぐったいのです」
「え、あ、申し訳ありません。感覚があるのですね」
「みたいなのです……あうう、なんで耳なんて……」
「よろしいじゃないですか、とても可愛らしいですよ」
「よ、よくないのです〜っわたしも猫ちゃんは好きですけど、そういう問題ではないのですっ!」

セオドリークの発言はかなり本気の危ないものだったのだが、幸いにもエイレンティアは違う解釈をしたようだった。残念ですね、と心の中で思いながらも、セオドリークは手を離す。しかしふと気になる部分があり、彼女に断ってもう一度近づけた。

「お師匠さま、失礼しますね」
「ふぇ?」
「ああやはり、少し縮んでいらっしゃいますね。心なしかお顔も幼く……?」

両手を脇にあて、ひょいっと軽々しく持ち上げたセオドリークは、注意深く彼女を観察する。いつもと目線の高さが違っていたように感じたからなのだが、勘違いではなかったらしい。だが、それだけでは終わらなかった。

「お師匠さま、当然これも本物……ですよね」

エイレンティアから生えてきているのは、耳とお揃いの可愛らしい尻尾。自分で触れて確かめたエイレンティアの脳内は、もうパニック寸前だった。

「こ、これじゃあねこちゃんと一緒ですにゃー!」

……にゃ?

聞き慣れない響きに、二人して固まる。エイレンティアの絶叫が再び家中に反響した。

「にゃ、にゃんでですにゃーーっ!?」

◇◇◇

「……ではやはり、猫になる薬を作られたわけではないんですね」
「あ、当たり前ですにゃっ」

大泣きするエイレンティアをなんとか落ち着かせ――まだ涙目だが――ベッドに座らせると、事情を聞き出す。語尾には思いっきり「にゃ」がついた状態で、だが。

「植物が元気になるくすりと……髪の毛が生えるくすりだったですにゃ。あともうひとつは……ええと……そうですにゃ、声が大きくにゃる薬ですにゃ!」

一生懸命に考え込んでいたエイレンティアは、なんとか全部思い出したようだった。種類はバラバラではあるものの、なんとなく納得出来るかもしれない三種である。

「にゃ、にゃんとか解除薬を作りませんとですにゃ」
「ですが……複雑に魔法がかかってしまっていますから、解くには時間がかかりそうですよ。せめて調合が分かれば話は違うのですが」
「調合はちゃんとメモしてあるのですにゃ。で、でも……」

エイレンティアはばつの悪そうな顔で部屋を見渡す。つられて同じ行動を取ったセオドリークも「これは無理でしょうね……」と心の中で呟いた。

ピンク色の液体が入った大きな壷、乱雑に並べられた薬やぬいぐるみ、本が今にも落ちそうな本棚、資料が積み重ねられた机、床には薬の材料にしただろう虫の死骸などが転がっている。広さ自体はかなりある部屋なのだが、ほとんどが物で埋め尽くされ、窮屈ささえ感じる空間だ。そう、エイレンティアは整理整頓がとんでもなく苦手だった。

長い間一人で暮らしていたのもあり、貴族の娘だったにも関わらず大抵の事はこなせるのだが、物を片付けるのだけは今でも不得意としている。あまりに散らかってしまうため、エイレンティアの部屋以外は全てセオドリークが掃除している程だ。そのため、この部屋から目当ての物を探し出すのは無謀にも近いのである。

「うぅ……わたしは魔女失格ですにゃ……」
「失敗は誰にでもある事ですよ、お師匠さま。解除薬の件ですが、私に任せては頂けませんか?」
「せおに……? で、でも」
「一日……いえ半日はかかると思いますが、必ず解きますから。これ以上薬の効果が出ないとも限りませんし、お師匠さまは休まれるべきですよ」

正論を突かれ、エイレンティアはうっ、と言葉を詰まらせる。今回は彼に甘えるのが一番いいのだろうとは、頭では理解しているのだ。けれど同時に誰かが制止をかける。いつまで他人を犠牲にするつもりだ――――と。

「……お師匠さま、エイレンティアさま」

俯いてしまった彼女に、セオドリークはやんわりと声をかける。

「私とお師匠さまが初めてお会いした時、生死の境を彷徨っていた私を貴方は助けてくださいました。あの時、お師匠さまが私を見捨てていたら。お師匠さまの薬がなかったら。私は今ここにはいませんよ」

柔らかな声が、じわりとエイレンティアの胸に溶けていく。こうして慰めてくれる彼は、優しい子だと思う。真っ直ぐな子だから、ただ本心を言ってくれているだけなのも分かっている。それなのに不安を拭えないでいるのは、一つの懸念があるからなのだろう。彼が本当に見ているのは誰なのだろうか、と。

「わかりました、ですにゃ。せおに……お願いするですにゃ」

エイレンティアはスカートをぎゅっと握り締め、彼に託す。彼女の心境に気付いていたのかいないのか、セオドリークは彼女の頭をゆっくりと撫でた。彼が触れる度、濡れていたエイレンティアの髪から水分が抜けていく。

「少しだけ、待っていてくださいね。お師匠さま」

穏やかでありながらも、どこか焦りも混じっているような口振りだった。ああ心配してくれているのだなというのが伝わってきて、エイレンティアは顔を上げて答える。

「はいにゃ。お願いします、ですにゃ」
「はい、任されました。それで……心苦しいのですが、お師匠さまの血を数滴頂きたいのです」
「どうぞですにゃっ。どこがいいですにゃ?」
「では、指で。失礼しますね」

彼女の右手をそっと持ち上げ、腰の短剣を引き抜く。深く切りすぎないように注意しながら、一本の切り傷を彼女の人差し指に入れた。血が滲んできたのを確認すると一点に集め、透明の膜で覆い、宙に浮かせる。それをそのまま自分の部屋の研究スペースに転送させた。

だが目的を果たしても尚、彼の手は添えられたままだった。

「お師匠さま、痛みはありませんでしたか?」
「うにっ。へーきですにゃ」

空いている左手でピースサインを作るエイレンティアに癒されながらも、セオドリークはほっとしたように息を吐き出す。

「セオ、手離してもらっていいですにゃ? 血で汚してしまうかもしれないですにゃ」
「あ、申し訳ありません」

謝罪の後、彼女の言葉通りに離そうとして、しかしすぐに思い留まった。白くて小さい、軽く力を入れるだけで折れてしまいそうな華奢な手。いつもの彼女より随分と体温が高いように感じるから、恐らくはここでも猫の性質が出ているのだろう。

守りたい、と素直にそう思う。滅茶苦茶に傷つけたくなる時は確かにあるし、泣かせたくなる時もあるが、それでもやはり笑っている彼女を見ている方が好きなのだ。己の全てを賭けても後悔はしない、愛しいひと。

「うにゃっ?」

驚いて声が出てしまったのだろう彼女は気にせず、セオドリークは彼女の傷跡に口付ける。片膝をつき、左手を胸元に当てた彼の姿は、まるで姫君に忠誠を誓う騎士のようだった。

漂う雰囲気があまりにも真剣で、エイレンティアの心臓がどくんと跳ねる。ただでさえ顔立ちの整っている彼にこんな事をされたのでは、いくらエイレンティアでも意識せざるを得なかった。――何があっても絶対に裏切らないと、そう伝えられている気がして。

「せ、せお?」

戸惑いを隠せないエイレンティアに彼はにっこりと笑うと、あっさり手を離す。

「痕が残ったら大変ですからね」
「にゃ? あ、傷……ないですにゃ」

いつ使ったのかはエイレンティアにも分からなかったが、彼がかけてくれただろう治癒魔法のおかげで切り傷などもうどこにもない。エイレンティアが礼を言えば彼は嬉しそうにまた笑って、すっと立ち上がる。

「後は私に任せて、きちんと休まれてくださいね、お師匠さま」
「えっ、あ、はいですにゃ」

エイレンティアの返事を満足げに聞くと、彼女に背を向けて歩き出す。振り返る気配もなく部屋を出て行こうとする彼に、慌てたのはエイレンティアの方だった。

「ま、まってですにゃっ!」
「お師匠さま?」

服の裾を掴まれたためか、セオドリークは不思議そうな顔で聞き返す。

「せ、せおにばかり頼っているわけにはいきませんですにゃっ! わたしもいくのですっ」
「ですが……」
「じゃ、邪魔はしませんですにゃ。大人しく待ってますですにゃ。だから」

必死に訴えるエイレンティアに、セオドリークはやや困ったように目を細める。だが、震える彼女の手を包み込んだ彼の仕草は、慈愛に溢れていた。

「敬愛する師にそうまで言われて、断れる弟子などいませんよ。分かりました。ですが、体に異常を感じたら無理せず休まれてくださいね」
「約束しますですにゃ!」
「はい、約束ですよ。お師匠さま」

コポコポと、怪しげな音が響く。光に弱い植物を使用しているため周囲は薄暗いが、物の位置を全て把握している彼には大した問題ではなかった。引き出しから黒い粒の入った小瓶を取り出し、最後の仕上げにと壷に放り込む。すると、不気味な色をしていた液体からすうっと色が抜けていき、水のように透き通ったものへと変化していった。

「お師匠さま、できまし……」

振り返った彼は彼女の状態に気付き、言葉を止める。ソファに座っていたはずの彼女が、いつの間にか横になっていたからだ。

「……猫みたいですねえ」

広いソファの上で丸まってすやすやと眠っているその姿は、まるで本物の猫を思わせた。仮にも男の部屋で安心しきっている彼女を見ていると妙な邪念が湧いてきて、思わず彼女の頬を人差し指でつつく。

ふにふに。もちもち。そんな音が聞こえてきそうなまでに彼女の頬は柔らかく、暖かく、指先に感じる弾力が心地よい。調子に乗って何度かそうしているとくすぐったのか、「うにゃ」と声を漏らして逃げるように寝返りを打ってしまった。それがまたなんとも可愛らしく、つい笑みが零れ落ちてしまう。

「貴方はそうやって俺を翻弄するのが得意ですね」

もどかしさを感じる時もあるが、決して嫌にはならない。彼女と過ごす時間はセオドリークにとって何よりの宝だからだ。

彼女の髪を一房取り、ふわりと口付ける。ただひたすらに愛している、だからどうか愛してほしいのだと、伝えきれない想いを込めて。

「おやすみ、ティア」

よいゆめを。布団を彼女にかけてから、セオドリークはその場を後にした。いくら彼でも、彼女が眠っている場所にいられるほど図太くはない。……もう一人の彼女の制裁が怖いから、でもあるが。

「せ、せおおおおっ」
「おはようございます、お師匠さま。よく眠れましたか?」
「あ、おはようございます……じゃにゃくてっどうして起こしてくれなかったのですにゃっ」
「とても気持ちよさそうにされていましたので、邪魔をしてはいけないと思いまして。そうだ、お腹はすかれていませんか? 味覚も変わっているかもしれないと魚料理にしてみたのですが。もちろん、薬も完成していますよ」

食事を用意していた手を止めて楽しそうに微笑むセオドリークに対し、エイレンティアは不満そうに頬を膨らませる。

「むうぅ、セオはにゃんだか隙がなくてずるいのですにゃ……」
「ふふ、そうですか? 有難うございます。剣を扱う者としてはこれ以上ない褒め言葉ですよ」
「そ、そういうことじゃないのですにゃっ。あ、いえっセオは剣の腕もすごいのですけどっ」

必死に弁解するエイレンティアを、笑みを崩さずに見つめるセオドリーク。そんな彼に気付いたエイレンティアは、物言いたげにしながらも渋々自分を納得させる。結局自分は、彼には勝てないのだと。

薬もエイレンティアが作っていたならば、恐らく最低でも一ヶ月はかかっているだろう。攻撃に特化している交代人格の彼女では半年かけたところで解けない可能性の方が高い。幾重にも絡み合った魔法を紐解くというのは、容易ではないのだ。

「うぅ……わたしも、もっと頑張らなくてはですにゃ」
「お師匠さまは今のままでも充分に魅力的ですよ。さて、では手を出されてください」

素直に差し出す彼女に近づき、一粒の包みを握らせる。

「きゃんでぃー?」
「そちらの方が良いかと思いまして。ブラックリザードの涙を入れましたから、そのままではとても飲めたものではない代物になってしまいましたしね」
「こ、子供扱いはよくないのですにゃっ。……これ、なめた方がいいですにゃ? かんだ方がいいですかにゃ?」
「どちらでも問題はありませんが、噛まれた方が早く効果が出ると思いますよ」
「じゃあ噛みますっ」

そう宣言して、包みを開けると口の中に放り込む。ほんのり甘い、エイレンティアの好きな味だ。もったいない気はしたものの、このままこうしているよりは、とガリガリ音を立てて砕いていく。セオドリークも見守る中、最後の一欠けらを飲み込んだ。

「も、戻りましたか!?」

目を輝かせながら、頭を触って確かめる。しかしふさふさした耳がついたままなのを確認すると、がっくりと肩を落とした。

「うう……尻尾もついたままです」
「口調は戻っているようですが……どうも時間差があるようですね。先に朝食でもいかがですか?」
「そうします……焦っても仕方ないですもんね」
「では準備しますね。ああでも、その前に」

エイレンティアの袖口に手を伸ばし、丁寧に折っていく。身長が縮んでしまっているために袖が随分と余ってしまっており、食べにくいだろうと思ったからだ。

「はい、これでいいですよ」
「ありがとうなのです。……セオ、なんで嬉しそうなのです?」

エイレンティアから見ても分かるほど、セオドリークの顔には締りがない。湧き出る喜びを隠せないといった様子だった。

「私はお師匠さまの幼い頃を知りませんでしたからね。ですから、夢が叶った気分なんですよ」
「? そういうものなのです?」
「ええ、そういうものなんです」

首を傾げるエイレンティアだったが、まあ彼が幸せそうならいっか、とあっさり流してしまう。それから一時間後、彼女にかかっていた魔法は無事全て解ける。

彼女と食事するために実はわざと効果が出る時間を遅らせただとか、解除薬を作るついでに猫耳が生える薬もこっそり作っただとか、そういった彼の裏事情は本人だけが知る事だ。