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虹の小道-02

「うちで働いてみない?」

それは、あまりにも突然の提案だった。誘われたローも事態を飲み込めず、呆然と立ち尽くす。マリィはそんな彼の反応をじっと待っていたが、一向に返ってくる気配がなかったため、ひらひらと彼の顔の前で手を左右に振った。「起きている」という彼の不機嫌そうな返事を聞くまで。

「もー、それなら何か反応してくれないと。立ったまま寝たかと思ったよ」
「寝るか。……どういう意味だ」
「ん? そのまんまの意味だよ」
「それが分からないから聞いているんだが」

その言葉にマリィはきょとん、とした表情を浮かべる。しばらくしてある事に気がついたのか、思い出したように手をぽんと叩いた。

「あ、ちゃんと名乗ってなかったよね。うちはサーカス団、ロトレフの一員なんだ。それなりに有名だったりするんだけど、一度くらいは耳にしたことない?」
「そういう問題じゃない」
「え、違うの?」

はて、他に何かあっただろうか。特に思いつかず、うーん、と唸ってみるものの、やはり心当たりがない。仕方がないので、マリィはただ思うままぺらぺらと喋った。

「ちょーっと安月給だけど、夢のある仕事だよ。皆がきらきらと目を輝かせるあの瞬間は何度経験してもたまらないしね! どんなきつい練習でも耐えられるってものだよ。顔は仮面とか被って隠しちゃえばいいし、あちこち移動するから逃げられるだろうし、こんないい条件なかなかないと思うけどなあ」
「……だから」
「あ、仮面はいやだった? じゃあ化粧でもいいけど」
「そういう事を言っているんじゃない」
「もー、まだ何かあるの?」

さっきから彼は何が気になるのだろうか。安月給なのが気に食わないのだろうか? 空腹で行き倒れるよりは遥かにマシだと思うのだが。マリィからしてみれば、彼が戸惑う理由の方が分からなかった。

「何を、考えているんだ」

深刻そうに言われたところで、マリィは首を傾げるばかりである。明らかに、二人の会話はかみ合っていなかった。

「だからそのまんまの意味だよ? あ、スカウトって取ってもらったらいいよー」
「俺は追われていると言っただろう。何故、そんな奴を誘う? 大体、俺の姿を見て気にならないわけがないだろう」
「ああなんだ、そんなことか」
「は……!?」

あっけらかんと言い放ったマリィの態度は彼にしてみれば不服だったようで、盛大に眉間に皺を寄せる。人がねずみになるだなんて現実ではありえるはずもない光景を、あろう事か「そんなこと」呼ばわりされたのだから、無理もなかったのかもしれない。だが当の本人は気にする素振りも見せずに、少女らしい無邪気な笑みを作った。

「サーカス団、ロトレフは情に厚いの。理由はそれだけ。それにさ、何でねずみになるのとか何で追われてるのか何で白い毛並みが黒髪になるのとか、初対面の人間に根掘り葉掘り聞くのって人としてどーかと思うけどなあ」
「……最後の、まだ気にしていたのか。それは正論かもしれないが、普通の人間はそれでも聞くか気味悪がって近付かないかだぞ」
「ふうん、そっかあ。じゃあ、うちは普通じゃないんだね。やったね!」
「褒めていない」
「普通じゃ埋もれちゃうもん。ほら、うち顔が平凡だしさー。だからいいことなんだよ」

おめでたい頭だな、とローは心の中で思う。世の中には前向きな人間もいれば後ろ向きな人間もいるわけで、彼女は前者のタイプなのだろう。おまけに、「初対面」と自分で言っておきながらこうして気やすく話しかけてくるあたり、人見知りなどとも無縁そうだ。それらはローからしてみれば理解できない境地で、また理解しようとも思えなかった。――――ただほんの少し、だけ。羨ましいとも心のどこかで感じた。

「うちさ、まだ返事聞いてないんだけど。どうする? ロー」

ずっとそう呼んでいたかのように、彼女はあっさりと彼の名を呼ぶ。彼がそんなあだ名をつけられるのは初めてだった。聞き慣れない響きに困惑を深めながらも、色々と思案してみたところで結局弾き出される答えは一つしかない。

「よろしく、頼む」
「りょーかいっ」

にかっと笑ってピースを作る彼女は、太陽のように眩しかった。

「……ところで、お前の一存で決めていいのか?」

酒場に向かう途中、ローは気になっていた事を尋ねる。

「うち、ちゃんと名乗ったよね。覚えてないならもう一回いうけど」
「……マリィの一存で決めていいのか」
「んー、多分ヘーキ。最近人手不足だったしね」

マリィは名前を呼ばれた事に満足げにすると、これまたあっさりと返す。そんなに簡単な話ではないはずなのだが、前向きに加えて楽観的な性格の持ち主らしい、とローはひっそりと溜息をついた。

「おま、……マリィは警戒心が足りなすぎるんじゃないのか。俺がもし悪党だったらどうするんだ?」
「えー、了承しておきながら言うの? それに悪党は自分からそんなこと聞かない、ってのはお約束だよ」
「あのな、俺は真面目に」
「だいじょぶだいじょぶ、戦って勝つ自信はまったくないけど、逃げ切る自信はあるから。まあ体かたそうなのがちょっと心配だけど、そのへんは訓練しようねー。そんなに立派な剣持ってるくらいだし、そういうの嫌いじゃないでしょ?」
「ん、ああ……まあな」
「おっけーおっけー、じゃあ解決」

「あのなあ……」というローの呆れ声は、「着いたよ」という彼女の声で掻き消されてしまう。意外に早かったな、とローは店の看板を見る。"fiore"と書かれた木の看板は年季が入っているのが見て取れたが、それがまたいい味を出しているように思えた。店の外観から見ても、なかなか趣のある酒場のようだ。

「……って待て、そもそもお前はまだ子どもだろう?」
「ローってなんかこまかーい。飲まないよ、雰囲気を楽しむだけだもんさ」

そう言いながら、マリィは店の中へと入っていく。ついで、ローも彼女を追った。

「ようこそいらっしゃいませ。ああ、ロトレフの方ですね。お部屋までご案内します」
「はあーい、お願いします」

店員の男性に誘導され、二階へと続く階段を上る。顔だけを見てすぐに分かる辺り、何度か来た事があるのだろうとローは推測する。そうして辿り着いたのは、宴会などに使われるだろう広い部屋だった。中では総勢30名ほどの団員たちが酒盛りをしており、がやがと賑やかだ。

「おーマリィ、遅かったな」
「ごめんごめん、粋な出会いがあったんだよ」
「粋な出会いだァ? なんだ、そこの怪しい男お前の彼氏か」
「ちっがーう!」

マリィをからかう男性の顔は赤く、既に酔っぱらっているようだった。きっと記憶にも残らないだろうとわかっていながらも、マリィは全力で否定しておく。来るのが遅れてしまったためか、皆すっかり出来上がってしまっているらしかった。人に絡んでは喋る人、いくら飲んでも表情を変えない人、泣き上戸、笑い上戸。同じ酒一つでも色々なパターンに分かれるのだから、面白い光景だとマリィは思う。普段は気弱な新人も酒が入ると豹変するのだから、お酒の力ってすごいな、とも。

「んでどうした、マリィ。なんか理由があって連れて来たんだろう」
「あ、やっぱだんちょーは元気だね。さっすがザル」
「まーな!」

マリィが「団長」と呼んだのは、一番奥の席の真ん中に座り豪快に笑う男性だった。周囲の音に紛れないよう、マリィは彼との距離を縮めていく。強烈な酒の匂いにローは顔を顰めそうになったが、なんとか堪えて彼女に続いた。

「一団の頭ともあろう者が、これくらいで酔い潰れてどうするってんだ。おい、酒持って来い酒」
「いいけどさー。それに人つき合わせるのやめなよね。見てて可哀想なんだもんさ」
「そりゃあれだな、潰れる方が悪いってもんだ」
「だんちょーより飲める人はここにはいませーん。明日も公演なんだからほどほどにね」

団長と団員というよりはまるで親子のようだな、とローはぼんやりと二人の会話を聞く。そうしていると、二人の視線が揃ってローに集中した。

「ねね、このひと入団希望者なんだけど。ど?」
「あー? まさか、てきとーにスカウトしてきたんじゃないだろうな」
「ちがうちがう。人手不足だったしいいよね?」
「まあ、ちゃんと使い物になるならかまわないが。お前、名は」
「え、あ、ロー、です」
「あだ名、ね。まあいい。オイ、誰かはさみ持って来い!」
「はい?」

目線は上から下に、品定めするような視線を向けられたかと思えば、彼は唐突にはさみを持って来いと叫んだ。
何故、はさみなのか。何故、目線をこちらに向けるのか。ローの疑問は解消されないまま、団員によってはさみが手渡されていた。――待て、何で本当にはさみが出てくるんだ!

「出来るだけ動くなよ。俺もそこまで腕はよくないんでな」
「……はい? ってちょ、待っ」

何をされそうになっているのかローが理解した頃には、手遅れだった。
ばっさり。そんな音が聞こえてきそうなほど、小気味よく、潔く。 腰まで伸びていた黒髪は、それはもう見事なまでに短くなってしまっていた。

「……は……!?」
「だから動くなって。怪我するぞ」

後ろ髪の次は、前髪。ローの目の前で、ぱらぱらと舞った。

「ま、こんなもんか。整えるのは得意な奴にやってもらってくれ」
「お、オットコマエー!」
「にーちゃん、そっちのが似合うじゃねーか!」
「うんうん、短いほうが似合うよ、ロー」

一部始終を見ていた団員たちからノリのいい声が次々と上がる。合わせてマリィも褒めるが、彼は完全に固まってしまっているようだった。

「あの、ええと」
「あんな長い髪じゃ目悪くなるだろう。ま、洗礼みたいなもんだ」
「はあ……」

それなら前髪だけでよかったのでは。そう言いたくなったのを必死に飲み込んで、後ろ髪を触った。……短い。ロー自身もそろそろ切るべきだとは考えていたのだが、こんな形で短くなるとは予想もしていなかった。特別な思い入れがあったわけではないとはいえ、これはあんまりではと肩を落とす。慰めてくれる人物など、ここには居ないのだが。

「ロー、酒は飲めるか?」
「え、ええ。嗜む程度には」
「よし、新しい入団者を祝って乾杯だ! マリィはオレンジジュースな」
「わかってますー! じゃ、乾杯しよ乾杯!」

「かんぱーいっ!」

グラスとグラスがぶつかる軽快な音が、あちこちで響き渡った。

「あ、新人は潰れるまで飲まされるのが恒例行事だから。がんばってね、ロー」
「そんな他人事みたいに……!」
「だってうちは飲めないもーん」

色鮮やかな世界に飛び込んだのは、孤独なモノクローム。果たして黒は他の色に染まるのか、それとも他の色が黒に侵食されるのか。
ひとつ、賭けをしようじゃないか。

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