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All things are only transitory.

その地には、誰も訪れません。その地のことを、誰も知りません。
けれど地は確かに存在していて、そこには住人がいるといいます。
誰も訪れないのに、誰も知らないのに、永遠に一人ぼっちなのに、それでも彼女はずっと同じ場所にいるのです。止める者はいません。寂しくないのか、と尋ねる者もいません。それが彼女の役目なのですから。

ここで死ぬのだと、そう確信していた。自分の意思とは反して意識が沈んでいく瞬間、きっともう二度とこの瞳は開かないのだろうと頭の片隅で思ったからだ。未練が何一つない、と言えば嘘になる。誰にも看取られずに逝くのは寂しかったし、自分が愛した人の顔を最後に焼き付けたかった。けれど現実はこんなものなのだろう、とどこかで納得していた自分がいたのも確かだった。終わりとは突然であり、正確な時間を予測するのが難しいのなら、当然、意図してその瞬間に付き添う事はもっと難しい。例えば今誰かが起きてきたとしても、自分の顔を見る可能性は低いだろう。朝になってようやく、声がしないと気付くのかもしれない。その後彼等がどうするのかは、自分の知るところではない。――――さようなら。せめてそう伝えられたらよかったのに。

「……あら、迷子さん? 珍しいわねえ、何百年ぶりかしら」

沈んでいた意識が、段々と浮上していく。声が頭上を通り過ぎた事に驚いて、まさか、と目を開いた。しかしあまりの眩しさにすぐに閉じてしまい、今度は覚悟してゆっくりと開いた。
一面に広がるのは、純白。どこを見ても、どこを探しても、白。目を擦ろうとした手の違和感に、ふと気付く。間違いなく自分のものであるはずなのに、自分のものではない。手が小さくなっているなんて、一体何の冗談だろうか。訳も分からず、ここが噂に聞く天国というやつなのだろうかと思い始めた時、人の足が見えた。見上げると、にこにこと笑う女性と目が合う。いつかの童話に出てきた、「天使」のような外見の女性だった。やはりここが天国なのか、と呟いた時、「違うわ」と返ってくるはずもない返答があった。

「ここは時の狭間。何にでもなれる可能性を持ち、何にもなれない、そんな場所。何にも干渉されず、ただこの場所にあり続けるの。有であり、無であるこの地には通常誰も訪れることは出来ないわ。あなたは、迷い込んでしまったのね。迷子の子猫さん」

頼んでもいない内容を、彼女はぺらぺらと語った。残念ながら、自分にはそのほとんどが理解出来なかったけれど。つまり生きているのか、死んでいるのか。それさえも、よく分からない。感覚はぼんやりとしており、死んでいるようにも感じるのだが、自分で死んでいると認めてしまうのもなんとなく嫌だった。可能性があるのなら、自ら決め付けてしまう必要はない。そんなこちらの心情を知ってか知らずでか、「そういえば」とのんびりとした声が響く。

「貴方の名前はなあに? 迷子さん」
「迷子、迷子と呼ぶな。俺には黒という名前があるんだ」

しまった、とすぐに後悔した。喋ったところで、まともに通じるわけもないのに。しかし、女性は満足そうに笑みを深くする。

「クロくん? クロちゃん? 間を取ってクロさんがいいかしら。ううん、ねえ、どう思う?」
「……いっそクロにしてくれ」
「じゃあクロりんにしましょう。ステキなお名前ね」
「オイ待て、何でそうなる!」
「うふふふふ。だってね、可愛い方がいいじゃない?」

ねえ? と可愛らしく首を傾げられても。聞いた意味が全くない。答えた意味も全くない。そもそも自分は男なのだ、可愛いと表現されて喜ぶはずもない。女性はすっかり気に入ったのか、クロりん、クロりん、と何度も繰り返す。……勘弁してくれ。

「可愛さを求めるな。クロでいい、クロで」
「えー、残念ねえ。でもあなた、すっごく可愛いのに」

人のコンプレックスにふれる な! 昔から可愛い、可愛い、と言われ続け、髪をリボンで結ばれたりしたのはトラウマの一つだ。それはあまりにも可哀想だ、と止めてくれる人がいたのが救いだったけれど。そんな風に彼等の姿が頭に浮かんで、彼方に飛びそうになっていた自分の意識が戻ってくる。彼女は自分を子猫、だと言った。そんな風に形容される歳ではないはずだ。……手の件といい、まさか、縮んでいるのだろうか。そもそもどうして、彼女と会話可能なのだろう。

「貴方の世界では非現実的な事柄も、別の世界では常識であるかもしれない。反対に、貴方の世界では常識であるはずのものが非現実かもしれない。世界とは、一つではないのだから」

なるほど、分かるような分からないような理屈だ。彼女の澄んだ声は、まるでずっと聞いてきたかのようにすんなりと馴染む。

「まあでも、私は何にも縛られないようにとプログラムされているんだけどね。ふふ」

その声はとても明るく、軽いものだった。……要するにこの人物が特別だという事なのだ。納得した自分がアホらしかった。

「……待て、プログラム?」
「そういえば、まだ説明していなかったわ。ようこそ、クロ様。わたくし、この塔の管理をしている者です。名はありません。どうぞお好きにお呼び下さい」

そう言ってふわりと微笑む彼女は先程までとはまるで別人で、羽こそないが、思い描く天使像そのものだった。ふぁんたじー。そんな単語が、クロの脳裏を掠める。あまりに現実とは程遠い彼女の姿を見て、途端に不安が襲ってきた。

「俺は、生きている、のか」
「恐らく、どちらでもない状態だと思います。そうですね、魂だけが迷っている状態、だと言えば通じますでしょうか。貴方がどこの世界の住人なのか、わたくしが調べますので、しばしお待ちくださいませ」
「……戻れるのか?」
「断言は出来ませんが、恐らくは。貴方の存在を特定出来さえすれば、問題ないと思います」
「それなら任せる。後、その口調はやめてくれ、気味が悪い」

そう言うと彼女は微かに驚いた顔をして、次の瞬間にはふにゃりと笑った。

「ありがとう、クロ。ふふ、あなたは優しい子なのね」
「ば……っ! ただ気持ち悪かっただけだ! そっちがお前の素の口調なんだろ!」
「ううん、どうなのかしら。こんな風に話すのもとても久しぶりのことなのよね。さっきのは営業用だったんだけど、上手く出来てなかったのかしら」

特に深い意味もないのだろう、のんびりと言われたその言葉で、はっ、と気付く。そういえば彼女は最初「何百年ぶりか」と口にしたのだ。純白の城ような建物はどこを見渡しても人の影すらなく、何の匂いもしない。無機質な柱、無機質な扉、女性の背後にある丸い台座。目に入るのはそれくらいのもので、一人でずっとこんな場所にいれば気が狂ってしまいそうだ。彼女はここに、一人でいたのだろうか。

「寂しくは、ないのか」

ほぼ無意識のうちに出た、疑問だった。彼女は青い目を見開いて、困ったように笑った。

「わからないわ」

それから二人は少しの間、同じ時間を過ごした。クロは彼女に寄り添うようにして、時に馬鹿みたいな会話をしながら、時に真面目な話をしながら、時間を共有した。何日過ぎたのかは分からない。自分がいつからここにいたのかも、よく分からない。彼女はもうずっと前から、作られた瞬間からこの場所にいて、世界を見守っているのだと言う。自分には出来ないな、とクロは頭を掻いた。クロは随分とやんちゃな性分で、同じ空間にずっと居るなんて事は出来なかったのだ。そのため昔はよく怒られたし、色々なものを駄目にしたりもした。幼かったのだ、良くも悪くも。ならば今こうしてじっとしているのは大人になった証なのだろうか。それもまた違うな、とぼんやり思った。彼女の傍にいなければ自分の存在さえ確かめられず、不安だったためだ。彼女の傍は居心地が良かった。彼女が寂しそうにしてたから、一緒にいたかった。それも嘘ではない。けれど突き詰めてみれば、結局自分は自分の事しか考えてはいない。全ては自分を守るため。なんとずる賢いのだろう。

それでも彼女は不快そうにしたりはしなかった。子供のように楽しそうに笑ったり、博識かと思えばとんでもない無知だったり、そうかと思えば水晶玉を使ってクロの体の在り処を探す時は大人の顔を見せたり、ころころと印象の変わる人物だったが、怒ったりはしなかった。よく言えば穏やか、悪く言えば無機質。それ以上のプログラムは与えられてはいないのだろう。目的のために作り上げられた、モノ。自分を創った人物は間違いなく存在しているけれど、会う事は叶わないのだと彼女は言っていた。その人物は彼女にとっての神であり、母親でもあるらしい。クロは正直なところその感覚がよく理解出来なかったが、そういうものなのだろう、と無理やり納得した。そうして、時間は過ぎていった。

「ううん」
「どうした」
「気のせいかと思っていたのだけど、やっぱりどこかにエラーが生じているわ。おかしいわねえ、後数千年は何の問題もないはずの作りなのに」

彼女は水晶玉を覗き込みながら、ううん、と唸る。「数千年」という響きにクロは気が遠くなるのを感じたが、なんとか堪えた。

「お前を作った人物は、お前以外にも誰か作らなかったのか」
「どうして?」
「どうして、ってお前なあ……」

彼女は水晶玉を持ったまま、軽く首を傾げた。心底不思議そうな顔した彼女に、クロは思わず呆れてしまう。せめてもう一人作るとか、生き物に溢れた世界にするとか、もうちょっとくらい気を遣ってもよかったのではないだろうか。作るだけ作って放置、とは、残酷すぎる。心ない人間というのはどこにでもいるもので、自分達の世界でもよく被害にあった。まだ女の子が幼かった頃、自分を抱きながら、「クロは絶対にあたしが看取るからね!」とぼろぼろに泣いていたことがある。てれび、という、箱の中に人が映る摩訶不思議なものには、行き場を失くした仲間達の成れの果てが映っており、それで女の子はそんな発言をしたのだろう。その時、自分は幸せなのだと実感した。過去を思い出し、クロが思案していると、彼女はいつも通りの穏やかな声で言った。

「私一人でこなせるんだもの、他に誰かがいる必要もないでしょう?」

その顔には、何の哀愁も浮かんではいなかった。そこでようやく、クロは彼女を理解出来た気がした。彼女は、幸福と不幸の物差しを持たないのだ。それはある意味、とても幸せなのかもしれない。何かと比べる必要もなく、自分だけの価値観を持ち、自分だけの世界で生きる。奪う者はいない、代わりに理解してくれる人もいない。そして本人はそれを悲しいとは思わない。そんな彼女に同情を感じるのは彼女にとって失礼なのだろうとクロは思ったが、止める事は出来なかった。傍にいてやりたい、とこの時初めて強く感じた。

「修正の方が先みたいだわ。ごめんなさい、クロ。もうちょっと時間がかかるみたい。あなたにとっては退屈でしょうから、時が来るまで眠らせるという手段もあるけれど」
「いや、いい」
「そう?」
「いつか俺のことさえも忘れられてしまっては困るからな。俺が監視しといてやるよ」

出てきたのは、素直ではない言葉だった。つくづく自分の不器用さを呪った。傍にいてやる、の一言さえ言えれば、それでよかったのに。不愉快に思っても仕方のない台詞だっただろうに、彼女は嫌そうにするでもなく、嬉しそうに笑った。

「クロは優しい子ね」

そして二人は、自ら望んで同じ時間を過ごすようになった。どれだけの月日が過ぎたのかは分からない。クロはもう既に、自分がどこから来たのかもよく分からなくなっていた。もしかしたら、全ては数日の出来事だったのかもしれない。元々自分の存在が不確かなものならこの場所自体があやふやで、はっきりとしたものなんて何一つなかったのだ。自分は彼女の傍にいて、彼女も自分の傍にいる。それだけが揺ぎないなら、それでいいと思った。時々自分の家族の事を思い出す瞬間はあったが、不思議と寂しくはならなかった。どうでもいいと思ったわけではない。帰りたくないと思ったわけでもない。彼等の時間は自分がいなくても動くのだし、どこかで生きていてくれるのなら充分だと思ったからだ。彼等はそんな自分を薄情だと責めたかもしれないけれど。
それでも彼女は、自分を帰すために一生懸命だった。何故エラーが生じてしまったのか、その原因は彼女自身なのか、世界なのか、クロというイレギュラーのせいなのか、それを突き止めるのがまず大変だった。膨大なデータを掘り起こし、一つ一つ確認する。実はこの作業は未だ終わっていない。クロが半ば諦めた原因は、そこにあるのかもしれなかった。

「どうして、なのかしら。マスターが何か扱ったのかしら。でも私は何も聞かされてはいないのに」

彼女が考え込む時間が、最近増えた。彼女は水晶玉と睨めっこしてみたり、上下に振ってみたり、転がしてみたり(どこまでも転がっていってしまったため、回収するのが大変だったりもした)彼女なりにこの状況を打開しようと必死のようだった。しかしそれらは無意味に終わるだけで、収穫は結局何もない。堂々巡りだった。

「オイ」
「原因が判明しなければ直しようがないわよねえ。ううううん……。もういっそ全部壊しちゃって構築し直した方が早いんじゃないかしら、どうなのかしら」
「オイなんか物騒な台詞が聞こえたぞ。そう簡単に壊すとか言うな」
「やーねえ、冗談よ。私にそんな権限は与えられていないもの」
「お前が言うと冗談に聞こえないから怖い」

権限さえ与えられていたら実行していたかのような口ぶりである。見つからないから壊す、なんて。極端すぎる考えだ。結果的にはそちらの方が早いのかもしれないが、壊したものと、直したもの。全く同じになんて、なりはしない。思い入れが存在する以上、新しければ良いというものでもないのだ。そんなに気にしなくていい。クロはそう言いたかったのだが、上手く伝える事が出来なかった。言えば彼女は焦らなくてすんだのに、どうしてそうしなかったのだろう。口下手だから? 意思疎通に慣れてはいないから? それとも、やはり完全には諦められなかったからだろうか。そんな自分の思考に、少し嫌気が差した。

「ねえ、クロ。あなたの名前は誰がつけたの?」
「普通に考えて飼い主だろうが」
「あら、それもそうね。素敵な名前ね」
「納得するなよ! まだ幼かった頃の兄妹が決めたんだ。黒猫だからクロ。母親はミケにしたかったらしいけどな」

いつか、彼女とそんな話をした。本当に何気ない、些細なやり取り。

「貴方は愛されているのね」

なんだか気恥ずかしくて、クロは顔を背ける。今思えば随分と安易な名付け方だが、名前をくれるだけでも嬉しかった。クロ、クロ、と嬉しそうに目を輝かせながら名前を呼んでくれた彼等。クロの記憶は段々と薄れていったが、時折急に思い出す事があった。それも、本来忘れているはずの幼い頃の記憶までも昨日の出来事のように蘇った。もしかしたら、それらもエラーによるものだったのだろうか。「エラー」たった三文字のそれがどれほどのものかなんて、クロには見当もつかなかった。

「名前、名前……。私も、最初に名前をもらったような気がするのよねえ。もう忘れてしまったみたい」
「なんだそりゃ」
「思い出せたら、クロに言うわね」

クロは「ああ」とだけ頷いた。その時はきちんと呼んでやろうと心に決めて。しかしその約束が果たされる日は来ず、彼女もいつまで経っても思い出す事はなかった。

「あったわ! こんなに小さな歪みだったのね。どうしてこんなところに出来てしまったのかしら、ねえクロ」

返事は、なかった。彼女は慌てて視線を落とす。彼は、消える寸前だった。

「……あなたも、わたしを置いていってしまうのね」

彼女は本当は最初から、知っていた。この空間に生きられるのは自分だけで、他の者には生き辛い場所なのだと。今まで迷い込んだのは、クロだけではない。しかし彼等は「早く帰してほしい」「こんなところに長くいては気が狂ってしまう」と揃ってそう言い、女性の身を気にかけたりはしなかった。だから、クロが初めてだった。彼は「寂しくはないのか」と聞いた。それから、彼は傍にいてくれた。理由はどうであれ、同じ世界にいてくれた。魂だけの存在がどれほど脆いものなのか、彼は知らずに。女性はクロを抱きかかえると、自身の膝に乗せる。彼女の柔らかい金の髪がクロにふれたが、虚しくもすり抜けてしまうだけだった。

「おやすみなさい、クロ」

せめてもの償いとして、貴方の最期を見届けましょう。大好きな、だいすきな、おともだち。

黒猫は女性にとってはとても短い生涯を終え、その地には再び彼女だけが住むようになりました。猫が亡くなったとき、女性は涙を流しませんでした。ただ静かに、目を逸らす事なく見守っていたと言います。猫は、幸せそうな顔をしていました。最期のその瞬間まで、彼は穏やかな笑みを浮かべていました。彼女がずっと傍にいてくれた事が、嬉しかったのかもしれません。

これから何十年、何百年、何千年と時が過ぎようと、彼女はただそこにあり続けます。誰が通り過ぎても、誰が居なくなっても、ただ変わらず存在し続けるのです。いつか彼女が消える、その日まで。

「さあ、次に誰かが訪れるのはいつかしら」

誰かが彼女を壊してくれるまで、彼女はずっと待ち続けるのでしょう。

All things are only transitory...この世の全てのものは泡沫にすぎない
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