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陽だまりの下で、きみと。

この広い世の中、望まれて生まれてきたわけではない子供も大勢いる。小鳥遊 颯(たかなし そう)もまた、その一人だった。

彼は資産家の男の子供である。羨ましいと、そんな家に生まれたかったと妬む人間も数多くいるだろう。しかし彼は十六歳で家出をするまで、とうとう一度も親から金銭以外での愛情を受ける事はなかった。

「……ま、僕も利用させてもらったからいいんだけど」

右手でマウスを操作しながら、颯は皮肉げに呟いた。瞳に光はなく、暗い影が見え隠れしている。

颯は、男とその愛人との間に出来た子供だ。しかし二人の間に愛は芽生えず、女が颯を産んだのも子供を盾に結婚を迫ろうとしたからだった。だが男の背後にあるお金しか見えていない女と男が結婚するはずもなく、いくらかの手切れ金を受け取って女は姿を消した。生まれたばかりの子供、颯を置いて。
男は颯を自分の子供として引き取った。それは颯への愛情からくるものではなく、罪悪感からでもなく、ただ「死なれては体裁が悪い」といった理由からだった。颯という名前すら使用人が渋々考えたというのだから、本心では息子と認めていないのは明白だった。
そのためか、男と颯はまともに会話をした事がない。顔すらほとんど会わせていない。正妻は颯にあたったりはしなかったが、代わりに居ない者として扱った。二年後に生まれた正妻の息子、颯の腹違いの弟にいたっては明らかに颯を嫌悪し、時としてひどい罵声を浴びせた。それを止める者は屋敷にはいなかった。

しかし、いちいちめげるような繊細な神経を持てなかった颯は、弟の暴言は鼻で笑ったし、「僕に勝てるものなんてないくせに偉そうだね」と馬鹿にもした。たまに父親に会った際には「僕の顔は母親譲りなんだって? 別れた女の顔見なきゃいけないなんて気の毒だね」と嫌味を投げかけた。すれ違った正妻が無視しようものなら「ご機嫌麗しいですね奥様。そんなにめかしこんで逢引ですか?」とわざと声をかけた。それはもう見事なまでに捻くれてしまった颯だったが、彼が置かれた環境を考えれば仕方のない事だったのかもしれない。彼を正してくれる人など、居やしなかったのだ。

そんな颯だが、世間的にみれば親と呼ぶ人間達に感謝している点が二つだけである。それなりに整った容姿に生んでくれた事、そして金だけは惜しまなかった事だ。

「颯、今日は泊まっていきなさいな」
「ん……いいの?」
「もちろんよ。だからもう一回しましょ?」

可哀想な子供ぶれば、女はすぐにだまされた。それで少しは気が紛れたし、家に帰るのも億劫だったため、颯は遊び歩いた。得られるものなんて、ほとんどなかったけれど。

「颯、最近どうしたの? 全然会ってくれないじゃない!」
「あのさあ、僕が本当に貴方を好きでいるとでも思ってたの? 僕が貴方といたのは体の相性がよかったからだよ。じゃなきゃ、厚化粧しか取り得のない年増女なんてお断りに決まってるじゃない。それに貴方だって他に男いるくせに、僕の行動に口出すのやめてよね」
「な……っ!?」
「最後に忠告しといてあげるけど、ちゃんと鏡見た方がいいよ、おねーさん?」

真っ赤になって顔を歪ませる女の姿はひどく滑稽で、まあ気晴らしくらいにはなったかな、と口元に笑みを浮かべながら女に背を向ける。背後で女が何やら泣き叫んでいた気がするが、名前も覚えていない女の言葉に耳を傾けるわけもなかった。
その頃の自分を、颯は別に恥じてはいない。後悔もしていない。ただ若かったなあ、とぼんやり思うだけだ。

転機が訪れたのは、中学三年生。授業で描いた絵が県が主催する美術展で入賞した時だった。

「颯君には才能があります。このまま埋もれさせるのは勿体ないほどです。将来を考えるにはまだ早い歳かもしれません。ですがどうか、その道に進む選択肢も加えてほしいんです」

美術の教師であり、担任でもあった男性はそう勧めた。だが颯の父親は「絵なんて、小鳥遊家の長男には相応しくありません」と一蹴した。息子なんて思ってないくせによく言うよ、と颯は心の中で悪態ついたが、どこかで落胆したのも確かだった。それがどうしてだったのか、颯には分からなかったけれど。
それなのにわざわざ展覧会に足を運んだのは、父親への反発もあったのかもしれない。けれど、理由なんてどうでもよかったのだ。

――――その日、颯は自分のいるべき世界と出会った。
丁寧に飾られた数多くの色鮮やかな絵、その中で特別賞として貼られた自分の絵。絵を見るために足を止める数多くの人。それら全てがまるで万華鏡のようにキラキラ輝いて見えて、今までの価値観を全て引っくり返すような衝撃を颯に与えた。ずっと素通りしてきた自分を、生まれて初めて心の底から悔やんだ。何より愛しいものは、全てをかけるべきものは、すぐ傍にあったのだ。

その後、颯は中学を卒業すると同時に一枚の置手紙だけを残して家を出る。その際、いくつかの装飾品をくすね――それも高いやつをわざわざ選んで――それらを軍資金にして独学で絵を学んだ。そうして、小鳥 遊(ことり ゆう)という一人の画家が誕生したのである。

「あーあ、株下がりすぎじゃない。それしか能ないくせに何やってるのかね」

パソコン画面を眺める颯の目に映るのは、不祥事発覚だのなんだの、小鳥遊グループの経営が傾いている事実だ。ま、どうでもいいやと颯は電源を落とし、固まった筋肉をほぐすために背伸びをする。

「……盗人と呼ばれるのは癪だしね」

売れば高額な値がつくであろう小鳥 遊の一枚絵が小鳥遊家に届けられるのは、それからしばらくしてからの事だ。
盛大な報復でもあるそれがどう扱われたのかは、颯の知るところではなかったが。

**

そんな男と、後に彼の恋人となる女との出会いは、実に奇怪なものだった。第三者が聞けば、「どうしてそれで愛が芽生えるんだ」と聞き返したに違いない。それほどまでに、現実離れしていた。
雨が降りそうな曇り空、子供も大人もいない微妙な時間帯、大した玩具もない寂れた公園で、いつものように絵を描いていた颯の前で女が倒れたのである。

(……めんどくさいな)
何で僕の前で倒れるんだ、と眉間に皺を寄せながらも、すぐに描きかけの絵に視線を戻した。死なれては流石に後味が悪いため、適当なところで救急車を呼ぶつもりではいたが、女はその前に自力で意識を取り戻した。そして、二人の目が合う。

「絵描きさん?」
「そうだけど」

なんとなく、条件反射的なもので答える。声をかけてきた女は子供のよう――というより、実際子供だった。十五歳程度だろうか、茶色の髪は短く切り揃えられ、服装も顔立ちも町を歩けばすぐに遭遇するだろうほど、平凡的な少女。ただ、穢れを知らない子供のように透き通った彼女の瞳がやけに印象的だった。

「自分の頭の中のものを形に出来るって、すごいね!」

瞳の色は変えないまま、まるで太陽を思わせる眩しい笑顔を浮かべて、彼女はそう褒めた。毒のない彼女の言葉に拍子抜けしてしまったのか、それとも歓喜したのか、何であれ体の力が抜けるのが分かって、颯は手を動かせなかった。……何なの、この子。

「でもひどいよ、お兄さん。どうしてあたしのこと無視したのかな」
「面倒だったから」

せめてもう少しくらいは取り繕うべきだったのかもしれないが、颯は思ったままを口にした。――泣かないでよ、手間が増えるから。颯の心境とは裏腹に、彼女はきょとん、と何回か瞬きをし、次の瞬間には嬉しそうに笑った。

「ねえお兄さん、名前は!?」
「……はあ?」
「あ、人に聞く前にまず自分から、だよね! あたしは柏葉 実和(かしわば みわ)です! 好きです、付き合ってください!」
「僕まで痛い奴だと思われるから近づかないでくれる?」

気を遣う必要もないな、と判断した颯は冷たく突き放す。しかし、さっさと諦めてくれという彼の願いは彼女には届かず、この日から付きまとわれる羽目になる。

「君が何考えてるんだか知らないけど、鬱陶しいからいい加減やめてくれる。大体、毎日毎日飽きないの」
「ええー? 何考えてるってそーくんのことしか考えてないよ! それと、全く飽きないから大丈夫! 絵描いてる時のそーくんの顔見るの、好きなの」

彼女は毎日凝りもせずに公園に訪れ、絵を描く颯の横に座り込み、他愛ない話を繰り返した。颯も初めのうちは徹底的に無視したが、彼女はいつまで経ってもめげず、仕方なく相手するようになって――と言っても相槌を打つくらいで、ほとんどは彼女が一方的に喋っているのだが――今日でもう一週間だ。

「そもそも君さ、真昼間からこんなとこ来てどうするの」
「えーそれはそーくんもだよ!」
「僕は仕事。中学生か高校生か知らないけど、補導されても助けないから」
「あたし高校生だよー。あれおかしいな、そーくんにあたしの歳教えてなかったっけ?」
「さあ、どうだろうね」

聞いた気もするし、聞かなかった気もするよ。興味もなさげにそう続けた颯に、実和はうううんと唸る。

「ひょっとしてあたしが言い忘れたのかも。自分を知ってもらうのは親交を深めるための大事なステップなのに、そーくんで頭がいっぱいで気付かなかったよ!」
「あ、そう。じゃあ気付かないままいれば」
「それはだめだよ。だって、目を背けるのはずるいことだもの」

そのはっきりとした物言いに、颯は少なからず面食らった。彼女もまた「何か」を背負ったものなのが伝わってきたからだ。本当は、薄々感づいてはいたけれど。

「改めて自己紹介だね、あたしは柏葉 実和(かしわば みわ)。歳は17歳、ぴっちぴちの女子高生! 家族構成はお父さんとお母さん、それとわんこ。コロっていってね、すごーくかわいいんだよ」
「ふうん」
「あのね、あたし病気なんだ。たぶん、後一年も生きられないの。それで学校にも行きにくくなっちゃって、今はテストを受けに行くくらいなんだ。でも外の空気は吸いたくなるから、近くの公園に散歩にきたらそーくんと運命的な出会いをしたんだよ!」

ぺらぺらと喋る実和に対し、颯は依然として無表情を貫いている。しかしその瞳には僅かな苛立ちが見え隠れしていた。

「で?」
「え?」

ひどく冷めた声で問われ、実和は思わず聞き返す。

「それで、君は僕にどうしてほしいの? 救ってほしいの、同情してほしいの。はっきり言っとくけど、僕は君に何もしてあげられないしするつもりもない。君を見捨てるような男なの、忘れたの?」

それは紛れもない拒絶の言葉だった。彼女を蔑視するものでもあった。どこかで、試してもいた。

「……そーくんはやっぱりまだ、あたしのこと分かってくれてないよね」
「何が? じゃあ君に僕の何が分かるの。それと一緒でしょ」

訴えかけるような彼女の声は今にも消えそうなまでにか細く、泣き声のようにも聞こえたが、颯は一切の容赦をしない。しかしそれでも、彼女は決して引こうとはしなかった。

「分かるよ。確かに分からないことの方が多いけど、でもそーくんが本当は優しい人だって知ってる」
「優しい? これまた僕とは程遠い評価をしてくれたものだね」
「遠くないよ。あたし、知ってるの。そーくん、絵描いてる時は絶対に携帯扱わないよね。ずっとポケットに入れたままで、時間確認する時も腕時計でしてる」
「……だから?」
「あたしが倒れた時、そーくんの携帯はポケットから出してあって、いつでも手が伸ばせるとこに置いてあったのを覚えてる。あれ、そーくんが絵を描き終わってもまだあたしが意識を取り戻さなかったら救急車呼ぶためだったんでしょう?」

颯は肯定も否定もしなかった。そのどちらもこの場にはふわさしくない気がして、ただ黙っている事しか出来なかったのだ。
二人の視線が絡むと、彼女はふっと微笑む。

「そーくんはね、人が大事じゃないわけじゃないの。ただ、絵が一番なだけ。あの時そーくんがあたしを無視したのは、あたしより絵の方が優先順位が高かったからだよ。それだけなの」

普段の颯ならきっと、それで僕を分かったつもり? と嘲笑っていただろう。或いは、ふざけないでよと怒っていたかもしれない。けれど、今の颯にはそんな気持ちは全く湧いてこなかった。彼女が一体何を喋るのか、興味さえあった。

「何より大切な、譲れないものを持って、真っ直ぐにスケッチブックを見る颯君は格好よかった。その瞳にあたしを映してほしいとも思った。そうしたらきっとあたしは最高の幸せを手に入れられるのに、って」

彼女の声は決して大きくはない。感情に任せて喋っているわけでもない。寧ろ柔らかさを含んでいるのに、彼女以外の声以外は排除してしまう不思議な強さを持っていた。

「ね、そーくん。あたしは颯君が好きだよ。小鳥遊 颯って一人の男性が大好きなの。それを忘れないで、覚えていて。今すぐじゃなくていいから、あたしを信じて」

――――信じて。そう言った少女は、次の日公園に来なかった。

(……今日で一週間か)
スケッチブックを抱え、いつものように公園に訪れた颯は、どこかで気落ちする自分に気づいていた。認めたくはないのに、信じたくもないのに、その度あの日の彼女の言葉が頭に巡る。

「目を背けるのはずるいことだもの」
近いうちに迎えるだろう自分の死を真正面から受け止めていた少女は、あれから姿を見せない。

「僕にもこんな感情があったとはね」
「そーくんって実は意外と感情豊かな人だと思うよ?」
「……は?」

突然背後からかけられた声に驚き、颯は振り返る。そこにいた彼女は、最後に見た時と何も変わりはなかった。

「久しぶり、そーくん! いやー、風邪ひいちゃってねー、やっと会いにこれたよ!」

唖然とする颯を他所に、実和はにこにこと笑いながら、彼との距離を縮めていく。

「ぼーっとしてどしたの、そーくん? あ、別に幽霊とかじゃないよ、あたしまだ生きてるよ!」
「……幽霊の方が興味深いけどね」
「え、そうくんって信じるヒト?」
「まさか。まあ、もしいて見えるなら絵に描くけど」
「あはは、それでこそそーくん!」

そう言って楽しそうに笑う彼女は至っていつも通りで、病人なのが嘘のようだ。けれど本当は、颯も気付いていた。顔色が悪い事、随分痩せた事、腕に残るいくつもの点滴の跡、その全てに。
だからといって、今更態度を改めようという気にはならなかったけれど。

「ってわけで、今日からまた通うから! よろしくね、そーくん」
「描きたいもの描いたし、もうこの公園に用はないよ」
「え」

さあっと青ざめる実和を、初めて見る表情だな、と颯は冷静に眺める。そして立ち尽くす彼女を置き去りにしたまま、別れを告げるように横を通り過ぎた。たった一言だけ言い残して。

「諦める気がないのなら、来れば」

一瞬思考を止めた実和だったが、すぐに我に返り、慌てて駆け出した。

「〜〜っそーくん大好き!!」
「はいはい」

手を差し伸べたわけじゃない。気持ちを伝え返したわけでもない。それでも二人の影は、そうある事が自然であるかのように寄り添い合っていた。

ほんの一時のものだと、最初から知っていても。