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哀しみの海の底で
この世界には魔王がいる。
魔王を倒すべき存在として勇者がいた。勇者を導くべき神子もいた。だが神子は仲間を裏切り、容赦もなく惨殺すると魔王として君臨する。その際全人類の半分をいとも容易く滅ぼし、世界を暗闇と恐怖で包み込んだ。

かつては神子として人々の期待を背負っていたはずの少女の心情など、ましてや勇者の心情など、今となっては誰にもわからない。けれど残された現実からは誰も目を背けられない。木々が枯れても、町の景色が変わり果てても、それでも人々は懸命に生きていた。

「母さん、メシできたぞー」

エプロンをつけた黒髪の少年が呼ぶと、ベッドに横になっていた女性はゆっくりと起き上がる。今にも倒れそうな頼りない足取りで、少年が待つ居間に向かった。とはいえ、後一人、二人いればそれだけで窮屈になりそうな狭い家なためそう時間はかからないが。

「いつもごめんね。ああ……美味しそうだわ」
「このくらい誰でも作れるっての。冷めないうちに食っちまおうぜ」

ギィギィと音を立てる椅子に腰を落とし、食事に手をつける。野菜が少し入っただけのミルクスープは週の半分以上は食べているものだったが、それでも二人にとっては立派な食事だった。肉がたっぷり入ったものを食べたいと駄々をこねたところで、出てくるはずもないのをとうに知っているからだ。

「そういえば、明日は貴方の誕生日ね」
「ん? あーそうだっけか」

固いパンをスープに浸しながら、少年は興味もなさげに返す。

「ええ、そうなの。貴方の11歳の誕生日よ」
「つっても一つ年取るだけだろ? どーでもいいよ、別に」
「あら、そういう言い方はよくないわ。貴方を生んでくれたご両親に感謝する日でもあるんだもの」

諭すような言い回しに反論できず、少年は面白くなさそうにパンを口に放り込む。わざわざ「生んでくれたご両親」と表現するのは、二人の血が繋がっていないからだ。
四年前、少年は旅先で両親を魔物に食われた。一人生き残った少年は行く当てもなく路頭に迷い、死すら覚悟した時に心優しい夫婦と出会った。二人は快く少年を受け入れ、質素ながらも穏やかな日々を送るようになる。だが、そんな生活も長くは持たない。それから二年後、不慮の事故で夫を亡くし、以来妻も床に伏せる日々が続いているのである。

「……だから、ね。明日一日、思う存分遊んでいらっしゃい?」
「何が「だから」なんだよ。つーか牛の世話どうすんだ。食事の支度だって一人じゃできねーくせに」
「平気よ、一日くらいならなんとかなるわ。牛のお世話もシーラさんご夫妻にお願いしてあるの」
「そこまでしなくてもいいっつーの。前にも言ったが、俺は嫌々やってるわけじゃないんだぞ」

母がまともに家事炊事をこなせなくなってからは、全て少年の仕事になっていた。金銭面でも苦しくなってしまっているため、彼女が常々申し訳なさを感じている事くらいは少年も気付いているが、苦にしているわけではないのだから気にする必要もないと思っている。

「そう言ってくれるのはとても嬉しいの。でも……貴方、自分がまだ11歳の子供だってちゃんと自覚してる? 私が貴方に押し付けてしまってるんだから、誕生日くらい遊んできたっていいのよ?」
「わかってるさ。守りたいものも満足に守れないガキだっつーのは」

あまりにも子供らしからぬ口振りに、女性は言葉に詰まる。思えば、少年は出会った時から既にこうだった。生意気を言っているわけではなく、大人ぶっているわけでもなく、こうして極自然に吐き出す時があるのだ。幼くして両親を亡くした少年は、それだけ色々経験してきたのだろう。

「ごっそさん」

一適も残さず食した少年は、片付けるために席を立とうとする。我に返った女性が「こら、待ちなさい!」と止めると、少年は不思議そうに女性を見た。

「なんだ、まだなんかあんのか?」
「ええ、大有りよ! いーい? 明日貴方が休むのはもう決定事項なの。理由がないっていうなら、私の社会復帰のためだと思えばいいわ。貴方がいるとつい甘えてしまうもの」
「……あのなあ」

そこまでしなくても、と少年は再度言いかけて、彼女の目が真剣なのに気付いた。どうやらよほど休ませたいらしい。これ以上は無駄だな、と少年は頭をぽりぽりと掻きながら「しゃーねえなあ」と渋々承諾する。会心の笑みを浮かべる彼女を見て、本当に大丈夫なのだろうかと不安を抱きながら。

**

昼前にも関わらず太陽の光とは無縁で、わずかな電灯の明かりだけで照らされた住宅街を少年は一人歩く。今朝も一応は抵抗したのだが、結局追い出されてしまったからだ。しかしかといって、何をすればいいのかどこに行くべきなのか少年はさっぱり思いつかないでいた。
生きていくのに精一杯で親しい友人などいないし、子供らしい遊びとは何なのかすらわからない。それを決して虚しいとは思わないが、現状においては困る要素にしかならなかった。ただ休暇を取らせたいだけなら家にいてもいいだろうに……そこまで考えて、家にいれば結局世話を焼いてしまうんだろうなと思い直す。そんな時、楽しそうに遊ぶ子供達の姿が視界に映った。

七、八歳くらいだろうか、男の子三人に座り込んで見守っている女の子一人。男の子達はぼろぼろになってしまっているボールを蹴りあって遊んでいるように見えるが、内二人は女の子を意識して彼女に良いところを見せようとしているのがバレバレである。それなのに女の子の視線はもう一人の男の子に注がれているのだから、皮肉といってもいいかもしれない。少年少女の恋路に微笑ましくなりながら横を通り過ぎたが、声が聞こえなくなった頃になってようやく「混ぜてもらうべきだったのか?」と気付いた。でもあの空気の中には入れないな、と歩みは止めなかったけれど。

「しゃーねえ、市場にでも行くかな」

独り言を呟いて、進行方向を変える。最初に考えていた行き先そのままになってしまったものの、まあいいかと自分を納得させて。

がやがやと賑やかな市場を、何をするでもなく歩く。途中林檎が安いのが目に留まり、折角だから買って帰ろうと品定めを始めた。普段ならば一つを二人で分け合うのだが、今日くらいは二つ買ってもいいかもしれない。林檎は母の好物だったはず――色々と考えながら二つ目の林檎を手に取った時、誰かが少年にぶつかった。

「うおっと……平気か、ばーさん」

林檎を落とさないようにしっかり持ちつつ、相手の様子を窺う。
七十代くらいだろうか、白髪を一つに束ね、目尻は下がり、人の良さそうな雰囲気をたたえた老婆だった。腰を曲げて杖をついているところから見ても、足腰が弱いのだろう。

「ああ、ごめんねえ。わたしは大丈夫だよ。坊やは怪我しなかったかい?」
「こんくらいじゃ怪我なんてしねーよ。アンタ一人なのか? 誰かと一緒じゃねーのか」
「ふふ、独り身の寂しい老人だよ。……おや坊や、どこかで会ったことはないかい?」

老婆は少年の顔を懐かしそうにじっと見つめる。だが少年の方には全く心当たりもなければ見覚えもなかった。

「わりぃが、そりゃ俺じゃねぇよ」
「おや、そうかい……そうさね、あの人はもういない……」
「あの人?」
「? どうかしたかい、坊や」
「いや今アンタが……ああ、いい。なんでもねえよ」
「そうかい?」

自分が何を喋ったのか覚えてない、といった風に首を傾げたため、少年は追及をやめる。これくらいの年頃の相手と会話し慣れているわけではなかったが、意味がないだろう事くらいは簡単に察せたからだ。一体自分は誰と間違われたのだろうと、少々気になりはしたが。

「それじゃあ、わたしはいくよ。坊や、本当にごめんねえ」
「ん、今度からは気をつけろよ」
「ありがとう」

礼を言ってから、老婆はよろよろと歩き出す。なんとなく目が離せずに小さな背中を追っていたが、すぐに人混みに紛れてしまった。どこか残念な気持ちになりながらも、今のはほんの数分の出来事に過ぎないと、何事もなかったように林檎に視線を戻す。
これを買って帰った時の母の喜ぶ顔が頭に浮かんで、想像するだけで自然と口元が緩んだ。誕生日だからといって祝ってくれるのなら、これくらいの贅沢は許されるはずだ。そう思って少年は中身のほとんど入っていない財布を取り出そうとしたが、その手がコインを掴む事はなかった。

「……わりぃ、用事済ませたらもっかい買いに来るわ」

店主に話しかけ、林檎を元の場所に置くと少年は勢いよく走り出す。あの足では遠くまでは行ってないだろうと、先程の老婆の姿を探しながら。

予想した通りすぐ近くにいた彼女を見つけるのは容易かった。だが、どう声をかけるべきなのか迷った。何か理由があって追いかけたわけではなければ、実は知り合いだったというわけでもないからである。見ているだけでひやひやする歩き方が母と被って、無事帰れるのか気になっただけなのだ。

「でもこれじゃただの不審者だよな……」

怪しまれる前にどうにかするか、と距離を縮める。

「ばーさん、荷物でも持とうか」

結局、出てきたのは無難な言葉だった。これが風貌の悪い人間だったならば、詐欺か何かと間違われかねない声のかけ方だったけれども。

「これはどうもご親切に……おや、さっきの子だね」
「ああ。他に何か買うもんはあるのか? 暇なんでな、付き合うよ」
「本当かい? それなら小麦粉を買ってもいいかねえ」
「ああ、かまわねえよ」

荷物が入った手提げ袋を受け取り、彼女の歩くペースに合わせて目当ての店を目指す。途中何度も躓きそうになった彼女を支えながら。

**

「坊や、本当にありがとうねえ。お礼に美味しいお菓子をご馳走するから、上がっておいき」
「……いや待て、これを上るのか?」

嘘だろ? とでも言いたげに少年が尋ねる。二人の目の前に広がるのは、軽く50段はあるだろう石段だった。更に傾斜が急であり、錆だらけの手すりも途中からなくなってしまっている。少年には何の問題もないが、この女性には辛いだろう。しかし女性は平然とした顔で頷いた。

「何でこんなとこに住んでんだよ……」
「昔お兄さんと住んでた家が高台にあってねえ。それでなんだか懐かしくって」
「思い出を大事にするのはいいと思うが、年を考えろよ年を」

言っている内容こそ厳しいものだったが声音は落ち着いており、心配してくれているだけなのだと分かった女性は嬉しそうに微笑んだ。

「坊やはいい子だねえ」
「そ、そういうのはいらねえ。ほら、さっさと上るぞ」

耳が赤いのをごまかすようにして、少年は石段を上り始める。その後随分遅れて女性も少年の背中を追った。

辿り着いた家に真っ先に抱いた感想は、「こんなとこに住みたくねえ」だった。草木はあちこちから生えているし、伸びすぎたツタが古びた家に絡み付いてさえいる。家自体も塗装が剥がれてしまっており、元は綺麗なオレンジだっただろうに見る影もない。少年の家も似たようなものではあるが、少年がこまめに補強しているためここまで酷くはなかった。何より、遠くまで見える景色が少年を憂鬱にさせる。上から見る町はこんな感じなのか、と思うと同時によく女性は平気だなと感心にも呆れにも似た思いが胸のうちに湧く。――こんな世界、見て面白いものでもないだろうに。

「坊や、鍵があいたよ。お入り」
「ん、ああ」

ぼーっとしていた時に声をかけられ、少年は意識を現実に引き戻す。最後にもう一度景色を目に焼き付けて、家の中へと入っていった。

「ばーさん、これどこに置けばいい?」
「そうだねえ、じゃあテーブルの上に置いてもらえるかい?」
「ん」

荷物を置くと、少年は小さく息を吐き出した。特別重かったわけではないものの、ずっと持っているのは何気にきつかったのである。

ぼろぼろの外観とは異なり、家の中は綺麗に整頓されているようだった。カーテンがオレンジだったりテーブルクロスが花柄だったりするためか、明るい雰囲気を感じさせる。手作りと思われるぬいぐるみがいくつか並んでいたりと、若干の少女趣味のようだが。
ふと、壁に飾られているある物が少年の目に留まった。

「旧メラン教……いまどき珍しいな」

ぽつり、と呟かれたその言葉には、馬鹿にするような響きも含まれていた。幸いにも気付かなかった女性は棚を漁りながら答える。

「それねえ……なんだか捨てられなくてね」
「今更こんなもん信じてどうすんだ? 要となっていたはずの神子は人間を裏切ったっつのにさ」

旧メラン教――――神子、メシアを崇め、祈りを捧げる事で世界に平穏が訪れると説いた宗派だ。象徴とする聖なる模様は神子が額に宿していたものと同一だという。かつては多くの人間が信仰していたが、今となってはすっかり姿形を変えてしまっている。そのため、少年も実物を見るのは初めてだった。好き好んで見たいものではなかったけれど。

「神子は、どんな思いで仲間と旅をしていたんだろうねえ」
「んなもん誰も知らねえよ。知りたくもねえ。だまされた勇者達も大概まぬけだよな。勇者が神子を倒してさえくれれば、誰も苦労なんかしなかったんだ」

忌々しそうに少年が吐き出すと、二人の間に沈黙が流れる。全ては勇者のせいだと、少年がそう口にするのは初めてだった。しかしずっと感じていた事だった。魔王を倒せぬ勇者など、役立たずもいいところではないか。

「……坊や、ずっと立ってるのも疲れるだろう? お座り、このお菓子とっても美味しいんだから」
「……ああ」

彼女が出してくれた茶菓子は、確かに今まで食べた事もないほどに美味しかった。だがどこか……苦い味がした。
原因は恐らく、食べている最中に彼女がもらした一言だろう。

「旧メラン教にはお兄さんが関わっていてね」
「え?」

信仰していた、ではなく関わっていたという単語に引っかかりを覚え、少年は聞き返す。

「今でもどうしてお兄さんが関わっていたのか、わたしにもわからないんだよ。お兄さんは何かに縋るような人ではなかったし、救いを信じる人でもなかったから」
「……気が変わっただけじゃねぇの?」
「どうなんだろうねえ。ただ……きっと私のためだったんだろうとは、思うよ」

そう語る彼女は、痛みをこらえるような顔をしていた。態度から考えても、彼女の兄がもう随分前に亡くなっているのは想像に難くない。「あの人」とは彼女の兄を指していたのだろうか。

「何も知らない私に残されていたのは、そんなものしかなかった。だからなのかねえ、捨てたらお兄さんの想いも何もかもなかったことにしてしまう気がして……どうしても、捨てられないでいるんだよ」
「ふうん」

少年は相槌を打つだけで精一杯だった。彼女にかけられる言葉など、11歳になったばかりの少年が持ち合わせているわけもない。きっとそれは彼女にも分かっていたのだろう、ただ静かに話すだけだった。

彼女に別れを告げ、少年は石段を下りていく。忘れないように林檎を買って帰らなくてはと考えながら。
一人家に残された女性は、壁に貼られた模様を指でそっと撫でる。何度も何度も、愛おしそうに切なそうに。

「ねえ、お兄さん。お兄さんは最期まで抗ったんだって……わたしは信じてるよ。長い眠りから覚めたばかりのわたしを取り囲んでいたのはお兄さんの悪評ばかりだったけれど、疑ったりなんかしない。お兄ちゃんは立派な人だったと胸を張って言える。それなのにどうして……こんなことになってしまったんだろうね」

返事はない。そんな時、ドアをノックする音が聞こえた。

「おや、忘れ物でもしたのかねえ」

ちょっと待っててね、と声をかけながら玄関に向かい、ドアを開ける。そこにいたのは先程の少年ではなく、一人の女性だった。深くローブを被っているため、表情までは読めない。

「はじめまして、勇者の妹さん」

女性はにっこりと笑って、被っていたローブを取る。美しい黒髪が、さらさらと風に流れた。

「あなた、どこでそれを……?」
「さあ、どこだったかね。まあどこでもいいだろう? これから死ぬ貴様には必要のないものだ」
「あなた、まさか……!?」
「――――さようなら」

鋭く伸びた五本の爪が、老婆の心臓を貫く。どしゃりと音を立てて、彼女は崩れ落ちた。

「老いた人間とは醜いものだな。さっさと死んでいればよかったものを」

黒髪の女性は不快そうに眉を顰めながら、右足を振り上げる。だが、彼女の頭を踏みつける直前でぴたりと動きが止まった。まるで、姿かたちのない「誰か」が拒んだかのように。

「ふむ? まだ意識が残っていたのか。つくづく人間とはしぶといものだ。まあいい、長年体を借り続けた礼としてお前の願いを叶えてやるのも悪くない。どうせもう手遅れだしな」

少年の母が流行り病にかかって亡くなったのは、それから一ヵ月後の事だった。
元々免疫力の落ちていた彼女には耐えられなかったらしい。最後の一週間はまともに喋る事すら出来ず、たまに口を開いても、「ごめんね、ごめんね、一人にしてごめんね」と焦点の合わない瞳で謝罪を繰り返すばかりで、本当に少年の姿を映していたのかすら怪しかった。それでも少年は健気に看病を続けた。本当はもうどうにもならないと悟っていたけれど、認められるはずもなくて認めたくもなくて、何度も「大丈夫だ、一人にはならないから」と返した。

少年の想いも儚く、母が亡くなったのは激しい雨の降る日だった。ただでさえ薄暗い世界が余計に闇に沈み、視界を悪くさせる。少年の黒い服が溶け込んでしまうほどに。

「ごめんシーラさん……行きたいとこがあるんだけど、ちょっと行ってきてもいいかな」
「それはかまわないけれど……こんな雨の中で? 明日にした方が……」
「いいよ、行っておいで」
「あなた、でも……」
「だが、必ず帰ってくると約束してほしい。君が生きるのを、誰もが望んでいるんだから」
「……わかってる。いってきます」

自分の引き取り手になってくれた二人に頭を下げて、少年は雨の中走る。

何度も息が切れそうになった。何度もこけそうになった。握り締めた拳が痛かったけれど、靴の中に水が染み込んで気持ち悪かったけれど、次から次へと溢れ出る涙を止められはしなかった。

「またおいでね、坊や」

彼女の言葉に癒しを期待したわけではない。でもどうしてだろうか、こんな時に頭に浮かぶのは、あの老婆の笑顔だった。

ようやく石段の前に辿り着き、乱れていた息を整える。そしてさあ上ろうとした時、花束と傘を手にした年老いた男性に声をかけられた。

「君、この石段の上のお家に住んでた人の知り合いかい?」
「ん、ああ……」

たった一度会ったきりで、決して知り合いと呼べるような関係ではなかったが、そう言っておいた方がいいだろうと答える。説明するのが面倒だったし、そんな余裕もなかったからだ。だが少年の予想に反して、男性は言いづらそうに口を開いた。

「彼女は亡くなったよ。丁度一ヶ月前になるかね……」
「は?」
「ベッドの上で眠るように息を引き取っていてね。それはもう安らかな顔で、最初はただ寝ているだけだと思ったほどだよ」

この人は一体、何を言っているのだろう。亡くなった? 誰が? 一ヶ月前? 自分は一ヶ月前に彼女と会っているというのに?

「彼女も不憫なものだよ。最近は誰の顔もわからなくなっていて……ひたすらに兄の帰りを待っていた。私もよく兄と間違われたものだよ」

それは本当に自分が会った人なのだろうかと少年の胸に疑問が芽生える。彼女は兄の死を受け入れているように思えたし、少年と兄を混同したりもしなかった。だからきっと、違う人だろう。そう、彼女であるはずが、ない。

「彼女には身寄りがなかったからね。亡骸は集団墓地に葬ったよ。よかったら、会いに行ってあげておくれ」

その後に続けられた場所を聞くと、少年は駆け出す。この花を供えてあげてくれないか、という男性の言葉は、雨音に掻き消されてしまった。

いくつもの墓石が並んだ地で、少年は彼女の墓を探す。きっとそこには何もないだろうと、男性の勘違いなのだと、そう証明するために。

けれど――――。

「……なんで、だよ」

どうして皆、俺を置いていくんだ。少年の嘆きはあまりにも重く深く、ひどく痛々しいものだった。

ズボンが汚れるのも厭わずしゃがみこみ、暮石に刻まれた名を撫でる。見覚えのない名前。あるはずもない名前。それなのに愛おしいと思うのは、何故だろうか。

「見てみて、お兄ちゃん! 遠くまでよく見えるよ! きっれーだねえ!」
「住み手がいなくて安かっただけだけどな。ま、住めりゃなんでもいいわ」
「もー、お兄ちゃんはまたそーいうこと言うー。そうだ、私いっぱいお花育てる! 緑溢れた家にしようね!」
「やりたきゃ好きにすればいいが、枯らすなよ。んな家に住みたくねえ」
「ひっどーい!」

自分は彼女を、ずっと前から知っている。

「馬鹿だろ、お前。あんなじーさんと俺を間違えんなよ。お前の記憶の中にいる俺は十代だったはずなんだがな……そこまで老けてたとでも言いたいのか? ひっでえなあ」

軽口とは裏腹に、ぽたりぽたりと涙が零れ落ちる。どんなに強がってみても、震える声をごまかせそうにもなかった。がんっ、と墓石を殴ってみたところで、彼女の声は聞こえない。どれほど欲しても、彼女の笑顔は見られない。

ああ、どうしてもっと早く。

「ほんと馬鹿だよな、お前。そんなとこに俺はいねえよ。待つならずっと待ってろよ……っ!!」

暗く冷たい哀しみの海の底で、かつての勇者は再び目を覚ました。だが彼の帰りを待つ者は、もう誰もいない。