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ルベウスの鎖
コツコツ、コツコツ。
石段を下りる音が、暗闇の中で不気味に響く。
コツコツ、コツコツ。
広い屋敷であるにも関わらず、他には何の音もしない。ランプを手にした青年は自分の靴音だけを聞きながら、一段ずつゆっくりと下りていった。口元に薄っすらと笑みを浮かべて。

階段を下り終わると懐から鍵を取り出し、固く閉じられた扉をあける。ギィ……と古びた鉄の鈍い音が鳴った。

「遅くなってごめんよ、レイチェル。待っただろう?」

心から愛おしいものに語りかけるような甘ったるい口調で、椅子に座る少女の名を呼ぶ。だが返事はなかった。

「おや、拗ねてるのかい? ごめん、ごめん。機嫌を治して。きみが好きなアレをちゃんと持ってきたから」

ランプとポットを小型のテーブルの上に置き、ティータイムの準備を始める。その間も少女はずっと黙っていたが、男は鼻歌でも歌いそうなほどに上機嫌だった。

「ちゃんと角砂糖も用意してあるからね。レイチェルは昔っからストレートじゃ飲めなかったもの」

とくとくと、赤い液体をティーカップに注ぐ。たったそれだけの動作からも、男の気品の良さが感じられた。

「うん、このくらいかな。レイチェルは食いしん坊さんだからね」

カップから溢れ出る直前で止め、角砂糖を二つ落とす。少女がいつも入れていた数と同じだった。

「はい、どうぞ」

薬指に指輪がはめられた少女の細い手に、ティーカップを握らせる。男はにこにこと笑いながら、彼女が飲むのを見守った。それがどんな些細な事であっても、少女が何かをしているのを見るのが好きだったからだ。
白く透き通ったなめらかな肌、ぱっちりとした大きな瞳、真っ直ぐに生え揃った歯。二つに結ばれた髪は丁寧に巻かれており、指先にはピンク色のネイルが塗られている。一目見てすぐに上等なものだと分かる黒いワンピースにはフリルとレースが惜しみなく使われており、服装も相まって人形のような印象を受ける少女の名は、レイチェル。男の最愛の妻の名だ。

「……どうしたの、レイチェル? まだ怒ってるのかな。ごめんね、仕事が忙しくてきみには寂しい思いをさせたね。今日はずっと傍にいるから、そろそろ許して欲しいな」

少女の頬を、そっと撫でる。そうすると、少女がかすかに微笑んでくれた。

「ありがとう、レイチェル。やさしいレイチェル、大好きだよ」

愛の証にと、頬に口付ける。彼女が返してくれなかったのが残念だったが、照れている姿が見れただけで充分だった。「理解出来ない」と他の人間は彼女を馬鹿にしたけれど、男にしてみればそんな事を言う方が理解出来なかった。感情表現が控えめなだけで、それは決して悪い事ではない。

「うん? ああそうか、気が付かなくてごめんよ」

誰も彼女を分かってくれないのなら、自分が分かってあげればいいだけだ。少女の手からティーカップを受け取り、自身の口に含む。そして、労わるように少女に口付けた。一滴も零す事なく、赤い液体が彼女に飲み込まれていく。ポットの中身が全てなくなるまで、同じ事がひたすらに繰り返された。

「美味しかったかい? レイチェルは甘えん坊さんだね。僕がいないと何も出来ないんだから」

うっとりと言うと、唇を離す。自身の口の中にも独特の味が広がったが、男は気にしなかった。

「今度はもっと沢山持ってくるからね。そうだね、もうちょっと甘い方がきみは好きかな」

やはり、少女は口を利かない。じっと彼を見つめ続けるだけだ。だが、普段と様子が異なっているのを男は見逃さなかった。

「おや、いたずらっ子だね、レイチェル。僕に言ったら怒られるとでも思ったのかい? 仕方ない子だ」

唇についていた液体を指先で拭い、途切れていた床の魔方陣を描き直していく。

「だめだよ、レイチェル。悪いことしたらちゃんとごめんなさいしなきゃ。でもそんなきみも愛してるよ。レイチェル、ぼくのかわいい天使」

「こ、こないでっ!! こないでえええええ!!」

女性の悲痛な叫び声が、路地裏に響く。涙で頬を濡らしながら、震える足をもつれさせながら、必死にただ必死に逃げた。そのうちに、壁とぶつかる。

「ひ……っ」
「行き止まり、ゲームオーバー。追いかけっこはこれでお終いですね?」

どうしてこんな状況になっているのか、女性にはさっぱり分からなかった。自分は酒を飲んでいただけだ。そうしたらやたらと綺麗な男に話しかけられて、一緒に酒を飲んだ。男は聞き上手で、知識が豊富で、こちらが振った話題に必ず答えてくれた。心地良い空間がそこにはあり、そろそろ酔いも回ってきた頃、男が自分の腰に手を添えた。着ているものからすぐに貴族の男だと分かったし、こんなに良い男が自分を誘ってくるのが誇らしくて、喜んで男に応じた。そしてホテルへ向かう途中だった、はずだ。

「い、いや……こ、こないで……!!」

男は先程までと変わらぬ美しい笑みを浮かべて、一歩一歩近づいてくる。――――手に、きらりと光るナイフを持ちながら。

「た、たすけて……っ」

歯が上手く噛み合わず、なんとか搾り出した言葉はひどく頼りない声だった。だが男には聞こえたはずだ。だから、どうか。どうか、どうか、どうか――――!

「大丈夫、怖くないですよ。貴方が亡くなっても、それは悲しい事ではありません。死して尚、誰かのためになれるなんてとても素晴らしいでしょう?」

オペラ歌手かと思うほどに透き通った声で、人間ではないのかと疑ってしまうほどに整った顔で、だからこちらにおいでと柔らかく誘うように彼は言った。酒に酔っていた時であれば、手を取っていたかもしれなかったほどだ。だが今は、彼の異常さを思い知らされるだけだった。

「そ、それなら! それなら別の誰かでいいじゃない! わたし、わたしはいやよ!!」
「ええそうですね、誰でもいいんです。そう、貴方でもいい」
「そ、そんな……っ」

何を言えば、何をすれば。彼は許してくれるのだろう。見逃してくれるのだろう。――そういえば近頃、若い女性ばかりが狙われる事件が多発していると 誰かが話していなかったか。被害者の女性は何十箇所にも及ぶ刺し傷を全身につけられ、見るも無残な姿で路上に放置されるのだという。加えて不可解なのは、現場にも被害者にも一切の血が残っていないという事だ。

すうっと、背筋が冷える。酔っていたとはいえ、どうしてそんな大事な事を忘れていたのだろう。どうして、知らぬ男についてきた!

「おや、命乞いは終わりですか? ならもういいですね」
「や、やめて……っ」

一歩ずつ確実に、男が距離を詰めてくる。迷いも見せず、心底楽しそうな顔をして。
だれか、だれか、だれか! だれかたすけて! わたしはしにたくないこんなところでしにたくない!!

「い、いや、いや……っいやああああああっ!!」

ナイフが、鮮やかに振り下ろされる。最後に見た男の顔は、天使の面を被った悪魔のようだった。

「ああ、ようやく静かになりましたね。全く、何を叫ぶ必要があるのか。僕の妻の一部になれるなんて、これ以上光栄な事はないのに」

「たす……」「……て」途切れ途切れの女性の声は耳に入っていないかのように、女性の体の至るところにナイフを刺す。腕に、手に、胸に、腹に、足に、何度も、何度も。その度に赤い血が吹き出るのが嬉しくて仕方がなかった。
鞄からポットを取り出し、女性の上に適当に置く。すると、みるみるうちに血を吸って中身を満たしていった。かつて世間から追放された魔術師が所持していたという、特殊な道具だ。

男は、魔術師の末裔だった。けれど、だからといって遠い昔に魔術が失われた今となっては出来る事など何もなかったし、例え力があったところでどうかしようとも思っていなかった。一体どのようなものなのだろうという、誰もが抱くような単純な興味はあったけれども。

「ふむ、まだ足りないな。ああレイチェル、今夜も君を一人にしてしまう僕を許しておくれ」

しかしそれも過去の話。魔術の力を知ってしまった男を止められる者など、どこにもいない。もしいるとするのならばそれは神か彼の妻だけだ。

「……正気の沙汰じゃねぇな」

人混みを掻き分け、横たわる女性に近付く。上にかけられていたシーツを少しめくると、一気に煙草がまずくなった。見るんじゃなかった、そう後悔するほどには強烈だ。死体など見慣れていたのに。

「あ警部、お疲れ様です!」
「ああ。何か分かったか?」

自分に気がついて声をかけてきた部下の一人に状況を尋ねる。恐らく無意味な質問だろうとは彼自身分かっていたが、万が一に期待したかった。だがやはり部下の顔色は思わしくない。

「それが……その、まだ何も……」
「そうか。引き続き調査を続けろ」
「了解です!」

顔にかけられている白布をめくって、彼女の顔を目に焼き付ける。彼女を守れなかった自分達への戒めでもあったし、彼女に同情したためでもあった。まだ若い彼女にはきっと、多くの夢があったはずだ。どれほど無念だっただろう。どれほど生きたいと願っただろう。

「やっぱ顔には傷がねぇんだな」

近頃発生している連続事件に一つの共通点があるのを資料で読んではいたが、実際に目にすると想像以上に異様だった。顔を守るのなら、何故こうも容赦なく全身にナイフを刺すというのか。暴漢された形跡はないし、何かこだわりがあっての事なのだろうか。

「事件は解決出来そうですか、警部」
「そのためにわざわざ遠くから呼ばれたんだ、してみせるさ。もう二度と犠牲者は出さない」
「はい、勿論です。……しかし何を考えているんでしょうね、犯人は」
「さあな。殺人者の気持ちなんて理解しちまったら人間終わる」

コツコツ、コツコツ。
地下室へと続く階段を、男は今日もまた下りる。誰よりも何よりも愛する彼女に会うために。

「レイチェル、気分はどうだい?」

扉を開け、彼女に話しかける。椅子に座る彼女の格好は、前に見た時と寸分の違いもなかった。

「今日のはね、きっととても甘いよ。気に入ってくれるといいな」

鼻歌を歌いながら、いつものようにティータイムの準備をする。むせ返るような血の臭いが牢屋内に充満したが、男も少女も気にする素振りはなかった。そんな時ふと、彼女の異変に気付く。

「……レイチェル、僕の可愛い天使。ちょっとだけ待っていてね、どうやらこちらの方が先のようだ」

ポットの中身を指先に零し、床に血の魔方陣を描き直していく。苦労して描き終えると、真っ白な髪に色が付いた。ひんやりとした手に熱が宿った。――――少女の魂が、また繋がれた。繋がれて、しまった。

「うん、これでよし。どうかな、変な感じしない? そう、よかった」

満足そうに一人ぺらぺらと喋り続ける男の先にいるのは、彼の最愛の妻。美しく着飾られ、足には鎖をつけられ、死して尚男に愛される哀れな屍。

「愛してるよ、レイチェル。だから僕をおいていっちゃだめだよ? ……でも大丈夫だよね、きみも僕を愛してくれているもの」

両思いだね、とはにかみながら、彼女に頬擦りする。彼女が生きていたならば、きっと何らかの形で抵抗しただろうけれど。

「どこにもいかせないよ、ねえ、レイチェル。きみは僕の傍にだけいればいい。僕だけを映せばいい。僕だけの声を聞けばいい。痛い思いをするのは、君だってもう嫌でしょう? 君のようにならないように、僕は顔だけは傷つけないんだよ。偉いね、ってほめて?」

縋るように、子どもが親の愛情を求めるように、彼女に語りかける。今の彼は、あの頃のように純粋な彼ではなかったけれど。

生前のレイチェルは、可愛い人だった。天真爛漫という言葉がよく似合う女の子で、男も彼女の笑顔に一目惚れをした。後から聞けば、彼女もそうだったのだという。互いに運命を感じ、ひっそりと式を挙げて――派手なものは彼女が好まなかったからだ――幸せを分かち合った。世界で一番幸せだと、胸を張って言えた。彼女もそうだと信じていた。あまりにも呆気なく崩れ去ったけれど。
ある日、彼女が別の男と仲良さそうに歩いているのを見かけた。あの男は誰かと食卓で問い詰めれば、男の好きな愛らしい笑顔で「いま好きな人」と答えた。男がショックで何も言えないでいると、彼女は「だから、彼の傍にいくね」と家を出て行った。そして、ぬかるみで滑らせた馬車に轢かれて即死した。彼女の面影もないほど、酷い姿で。
呆然と彼女を抱きしめて、家へと連れ帰った。心配する屋敷の人間は追い払って、部屋に閉じこもった。どうして、こんな事になったのだろう。どこで間違ってしまったのだろう。後悔ばかりが浮かぶ中、これであの男の傍には行けなくなったと歓喜した、その時だった。書棚に並べられた一冊の本が怪しく光ったのは。

「ぼ、ぼっちゃん……? な、なにをするのですか、な、なぜ……!!」
「彼女が僕のためにもう一度生きるには、血がいるんですよ。だから、ね?」

僕と彼女のために死んで? 子どものように無邪気に笑って、次から次へと屋敷の人間を殺害した。彼らの家族が不審がらないように、後始末も怠らなかった。そうして集めた大量の血液で、血の魔方陣を描いた。何のために誰が作ったのかは不明だったが、地下室に作られた牢屋を選んだのは、彼女をもう逃がさないと思ったからだった。

本に書かれていた禁忌の術は無事成功し、冷たかった体は再び温もりを持った。傷だらけの体の傷も癒えた。仮にそのままであったとしても愛せる自信はあったが、可愛らしい彼女の顔に傷があるのはあまりにも痛々しかったため、ひどく安堵した。それから、男と彼女の二度目の生活が始まった。楽しくて楽しくて、誰かに自慢したくて仕方がなかった。だから、彼女が愛したという男を招いた。彼女は自分のものだと、そう見せ付けるために。

「なんだ、これ……!? アンタ、正気か!?」
「失礼な物言いですね。僕が狂っているとでも? ああほら、彼女も怒っているじゃないですか」
「骨相手に何言ってるんだ!! アンタがやっている事は死者への冒涜だ! こんな、こんな事を彼女が望むとでも思うのか!?」
「知った風な口利かないでくださいよ、彼女を理解してないのは貴方の方でしょう? 彼女はこんなに喜んでいるのに」
「理解出来るわけがないだろうが!!」

激しい罵声だった。そして、それが彼の最期の言葉になった。

「……君の血は、彼女にはあげません。溝川にでも流してあげますよ」

彼女を繋ぎ止めるには、毎日かかさず血を捧げる必要があった。切れた途端、彼女を天国へと連れ戻そうするからだ。だが、こんな男の血を彼女に渡したくはなかった。それでは彼が救われてしまう。彼女の中で生き続けてしまう。そんな事は、耐えられるはずもなかった。

「レイチェル、こんな男のどこがよかったんだい? ……ああ、僕を嫉妬させてみたかっただけなら、そう言ってくれたらよかったのに。きみのそういうとこ、好きだよ」

男は少女を心の底から愛していた。熱があって時折無造作に動くというたったそれだけの骸骨でも、男にとっては関係ない事だった。彼にとっての彼女は天使なのだから。

「ずっとずーっと愛してるよ、レイチェル」

永遠の牢獄から、少女は二度とは抜け出せない。いつか彼が終わりを迎えるのを待つ事しか出来ない。裏切りの代価を、払い続けるしかないのだ。

――――宿った魂が本当に彼女のものなのかは、誰にも確かめる術がなかったけれど。