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茜空と涙色

自分などいてもいなくても変わらないのだと気づいたのは、いつだったか。消えてしまいたいと最初に思ったのは、いつだったのか。考えてみても、答えはでない。けれど思いは消えることなく褪せることもなく、ただ降り積もり続けた。そしてとうとう、ちいさなコップから水が溢れてしまったのだ。

一歩、また一歩。その意味を噛みしめるようにして、ゆっくりと進んでいく。茜色のグラデーションを見せる夕焼けは憎らしいほどにきれいで、まるで自分を包み込んでくれているようだった。どうしてか写真に収めたくなって、ポケットから携帯を取りだすとカメラを起動させる。ほとんど使ったことがなかったため細かい機能はよくわからなかったが、カメラのマークをしたボタンを押せばいいのだけは知っていた。
枠内に夕焼けを収め、カシャッと一枚。切り取られた世界はすこしだけ歪んでいたけれど気にせずに保存し、携帯を手にしたままもう一度本物の景色を見た。どこまでもどこまでも広がる空は先ほどとは色合いが異なっており、一分、また一分とちがう顔を見せていく。小学生は今頃、門限だからと友達との別れを惜しんでいる頃だろうか。中、高校生は部活で汗を流してる頃だろうか。大学生は、どうしているだろう。大人は一生懸命に働いている頃かもしれない。

ふと、友達とブランコをこぎあった幼い日を思い出した。時計なんてもっていなかったから、公園のおおきな時計で時間を確認して、まだ大丈夫まだ大丈夫とぎりぎりまで遊んでいた。途中で買い物帰りのおかあさんが通りかかって、またあしたねと友達に手を振っておかあさんと一緒に帰った。家までの道のりはあっという間だったけど、やさしく微笑んでくれるおかあさんと会話するのはたのしくて、もっと寄り道したいと思ったものだ。家について離れた手が、なんだかさみしかった。いつまでもいつまでも、ぬくもりを感じていたかった。

どれほど願ったところで、二度とは得られないぬくもり。

「……おかあさん、ごめん」

弱い娘を、どうか許してください。愛してくれたのに、慈しんでくれたのに、親不孝でごめんなさい。どうしてこちらに来たのかと、怒ってください。

「たか、い」

高層マンションの屋上は、想像よりもずっと高い場所にあった。駐車場にとまる車が、随分とちいさく見える。でもそれでよかった。中途半端な高さからだと失敗するかもしれないと、わざわざ選んだのだから。――自分の死に場所を。

方法については、何度か悩んだ。リストカットは恐怖心が勝ってなかなか深く切れないのを知っていたし、睡眠薬は大量に手に入れるのがむずかしかった。凍死は季節的にも地域的にもむりがある。準備も手軽な首吊りが一番いいと思ったが、かつて母とすごした家で命を絶つのは流石に後味の悪さを覚えた。じゃあ海か、とも考えたものの、結局たどりついたのは空に一番ちかい場所だった。

「ごめんなさい、って誰に謝ればいいのかな……。マンションの人にかな、警察の人にかな」

もしくは自分に関わるだろう人全員か。

「携帯はおいていこうかな。折角とった写真ももったいないし、壊しちゃったらかわいそうだよね」

残していた方が身元が割れるのも早いだろう。そう思い、冷たいコンクリートの上にそっと置く。何かあった時に連絡がとれないと不便だからと強制的にもたされたそれ。でも使う機会もなく、アドレス帳もうまってはいない。だから目立つ傷は入っておらず、何年も前のものだというのに新品同様だ。

棚に手をかけ、ごくりと息をのみ込む。乗り越えて、あとは飛び込むだけでいい。たったそれだけ。それだけで世界に終わりを告げられる。ちっぽけで残酷な、この世界に。

「可哀想なのはあなたの方だと思うわ」

背後から聞こえた声に、勢いよく振り返る。そこにいたのは、自分と歳も変わらないだろう少女だった。くせのない艶やかな黒髪は腰まで伸び、夕焼けのせいか瞳は不思議な色をしている。まつげは影を作るほど長く、しかしマスカラなど人工的なもので作られているようには見えない。すっと通った鼻筋も、くっきりとした二重のまぶたも、鈴のように可憐な声を生み出す唇も、彼女が生まれつきもっていたものだろう。

「……幽霊?」

われながら非現実的なひとことを口にしてしまったのは、彼女の美しさだけが原因ではない。肌は白いを通り越して青白く、十一月を控えたこの時期では寒いだろう七分の薄手のワンピースから覗く手足はひどく細くて、消えてしまいそうな儚さがあったからだ。

「失礼ね。わたしのどこを見て幽霊だというの?」

ずっと聞いていたいと思わせる透き通った声は、どこか冷ややかだ。全部です、と答えるのはためらわれて、曖昧に笑い返す。そんな自分を見た彼女はほんのわずかに眉間に皺を寄せた気がしたが、すぐに無表情にもどった。

「じゃあ貴方は、マンションの人?」
「いいえ、ちがうわ。ただ通りかがっただけの無関係の人間よ。だからあなたもわたしなんて気にせず続きをどうぞ」
「……とめないの?」

ふともれてしまった言葉に対し、彼女は「あら」と意外そうに返してきた。面食らったのはこちらの方だったのだが。だっててっきり、そのために声をかけてきたのだと思ったのだ。なのに続きを勧められるとは、予想外もいいところだった。

「止めてほしいの。見ず知らずの人間に止められたらやめてしまうような覚悟で、あなたはそこにいるの?」

そんなわけは、ない。もしそうなら、家族への恨みをつづった遺書まで残したりはしない。明日まで生きているつもりは毛頭なかった。……けれど。自分が彼女と同じ立場だったとして。彼女のように立っていられただろうか。きっとうわべだけの心配をはり付けて、止めようとしただろう。相手のためではなく、目の前で死なれては目覚めが悪いといった自分勝手な理由で。私はやさしい人なのだと自分に酔いながら。

「ああでも方法は変えた方がいいと思うわ。あなた、飛び降り自殺の末路をご存じ? 血の海の中で内臓や脳みそがぐっちゃぐっちゃよ。顔だって原型をとどめないでしょうね。臭いだってすごいと思うわ」
「そんなこと、知ってるよ」
「そう。ならどうして、マンションの人がそれを見てしまうかもとは考えないの? 子どもが見てしまったら一生もののトラウマでしょうね。住めなくなって、引越しを余儀なくされるかもしれないわ。そうでなかったとしても、人間の遺体とはいい難い肉の欠片を拾いあつめなきゃならない人がいるのよ。しかもそういう人って、お給料が特別高いわけでもないんですって。気の毒よね。どうしても死にたいなら誰にも迷惑をかけずに逝きなさいな」

間違いなく、正論だった。痛いところをつかれ、反論しようにも乾いたのどは何の音も発しない。切れた唇は、ひりひりと痛む。握りしめた爪が食い込む。でもそれでも、黙っているなんてできなかった。

「……貴方に」
「なあに?」
「貴方に、何がわかるの」

そうまでしてでもさよならしたい人間の気持ちなんて、彼女には伝わらないだろう。布団にくるまって、涙が枯れるほど泣いた。何も聞きたくなくて耳を塞いだ。平気だと笑顔を作れるようになった。ひとりで過ごせるようになった。母に恥じない生き方をしたくて、勉強だって頑張った。毎日毎日、毎日、懸命に生きた。でも朝起きて現実を思い知らされるのは苦しくて、制服を着るのは息が詰まって、味のしないご飯を飲み込むのは苦痛でしかなかった。 迷惑をかけてしまうのは、申し訳ないとは思う。思うけれど、そんなことにかまっていられるなら愚かな選択はしなかった。

「あなた、赤の他人に何を期待するの?」
「な……っ」

はっ、と鼻で笑われた。完全にばかにされて、頭に血が上る。

「あなたなんて、わたしからしたらどうでもいいのよ。だってそうでしょう、ちょっと会話をしただけなのよ。明日には出会ったことさえ忘れてるわ。辛かったのね、頑張ったのね、たくさんたくさん我慢したのね。でも大丈夫、辛い経験をした分残りの人生は幸せで満ち足りてるわ。あなたがいなくなったら悲しむ人がいるの。だから、ね、こっちにおいで――なんて、その辺に転がってる安っぽい言葉で同情されてなぐさめられて満足するの? 世界にとってあなたの存在はちっぽけなものにすぎないのよ。それが現実」

彼女は、無表情のまま淡々といい切った。いっそ清々しいまでの現実主義者である。自分が目の前で飛び降りたところで、きっと彼女は顔色ひとつ変えないのだろう。悔しくなったが、先ほどまでの怒りは感じなかった。彼女相手に怒ったところで、なんだか無意味な気がしたのだ。

「ああでも、反面教師にはなったわ。自ら命を絶つほどばかばかしいことってないのね。死ぬ勇気や覚悟があるのなら、生きるために使った方がよっぽど有意義だわ」
「そ、そうかも……しれないけど」

彼女のいうことはやはり、限りなく正しいのだろう。なのに素直に受け取れない自分がひねくれてしまっているのか。
死ぬのは、ほんの一瞬の痛みですむ。けれど生き続ける限り、痛みを背負わなくてはならない。いつ解放されるのかもわからないまま、ひたすらに動き続けるしかないのだ。明後日は、明日を乗り越えなきゃやってはこない。明日は、今日を乗り越えなきゃやってこない。……今の自分では、もうむりだ。出口の見えない迷路でぐるぐるとさまよい続ける力は、ない。しとしとと降り続ける雨を防ぐ傘は、とうに壊れてしまった。

他の人は、どうやって生きているのだろう。こんなにも生きづらい世界で、どうやって呼吸をしているのだろう。悲しい、苦しいという感情を、どう消化するのだろうか。それさえわからない自分は、人間失格なのだろうか。

「……ねえ」
「なあに」
「もし、もしね。貴方と話してるのが見ず知らずのあたしじゃなくて、貴方の友達ならどうしてた?」

赤の他人に期待しないで、と。彼女はいった。なら、知り合いならどうしたのだろう。ふいに湧いた疑問を、そのままぶつけてみた。

「そうねえ……」

彼女はゆるく首を傾げて、考え込む仕草を見せた。ああ美人がするならどんな表情でも様になるのかと、妙に納得してしまう。幽霊とまで思った儚さは今はなく、人間味さえ感じられる。なんとなくこちらの方がすきだと思った。

「どうかしら。わたしが止めないことでその子が解放されるのなら、わからないわ」
「そう……」
「だって、生きろっていうのは周りのエゴだもの。本人の苦痛や悲しみ、絶望、それらを誰も代わってはあげられない。すべて背負うこともできない。いつか良くなる、なんて無責任な言葉だけを投げつけて、本人がどれほど辛いのか理解しようともしないのはどうかと思うのよ」

まるで、彼女自身が体験したかのような口振りだった。もしかしたら彼女も、様々な思いをかかえながら生きてきた人なのかもしれない。

「まあ、そういう思考は悲劇のヒロインぶってるだけだとも思うけれどね。何もかも人のせいにして可哀想な自分に酔っていれば、それだけで生きられるもの。お手軽だわ」
「お、お手軽ってそんな三分クッキングみたいな……」

頭の中で、独特の音楽が鳴りひびく。つられて歌いそうになってしまった自分に気づいて、一瞬にして力が抜けてしまった。親しみなれたあの音楽の、なんと毒気のないことか。

「三分クッキング……?」
「え、知らないの?」
「わたしは料理をしたことがないからわからないのだけれど、三分で作れるものなの? お料理はとても手間がかかるものだって聞いていたけれど」
「うーん、あれは食材とか全部用意されてるからなあ。自分が実際にやろうと思ったら、三分じゃ厳しいと思うよ」
「あら、そうなの」

何故、三分クッキングについて語り合っているのだろう。よく知りもしない人と、こんな場所で。

「子どもたちのお帰りね」

彼女がいう通り、誰もいなかったはずの駐車場からたのしげな声がする。希望だけに満ちた、無邪気な声が。

「ああいうのを、青春というのかしら。きらきらと輝く、愛おしい日々。なにげない毎日が将来の宝物になるのよ。わたし達とは縁のない話ねえ」
「……そうだね」

今まさに飛び降りようとしていた自分と、それを止めなかった彼女だ。眩すぎるひだまりとは縁がないにもほどがある。弾き出されたのは、自分たちの方だ。

「それで、あなたはどうするの。無垢な子どもたちにトラウマを植えつける?」
「そうだね……」

彼女から視線をはずして、くるりと背を向ける。改めて見下ろした世界は予想以上の高さで、びゅうびゅうと吹き付ける風が髪の毛を乱した。つい無意識のうちに抑えてしまっていた自分に気づいて、これから死のうとしていたのにおかしな話だと思う。髪の毛なんて整えたところで、何にもならないのに。

「あなたはやっぱり、哀れな人よ」

凛とした彼女の声は、全くぶれない。

「だからあなたがいなくなったら、わたしが泣いてあげる。あなたが好きそうなお花を添えて、ついでに歌もうたうわ。あまり上手くないから、その辺は許してね。あなたの心が、せめて安らかであるように。貴方はひとりではなかったのだと証明するために」

彼女は嘘をつかない人だというくらい、短いやりとりの中でもわかる。本当に色とりどりの花をもって、涙を流しながら空に向かって歌ってくれるはずだ。

「どうして貴方はそうなのかしら。そこまで私が気に食わないの? ああいやだわ、私だって彼にこんな可愛げのない子どもがいるって知ってたら結婚なんてしなかったのに」
「ねえ、何であんたは今日も学校に来てるの? さっさとやめちゃいなよ。みんな幸せになれるんだからさあ」
「仲が良いこのクラスでいじめなんて起きてないよな? 誰が勘違いしたんだろうなあ」
「母さんの弁当捨てたって本当か? お前のためを思って作ってくれてるんだ。わがままばかり言ってないで、彼女に感謝しなさい。学校にもろくに行ってないそうじゃないか。私達に迷惑ばかりかけて、楽しいのか」

自分がいなくなったところで、彼らは泣いたりしないだろう。安いお菓子でもつまみながら、ようやくいなくなったと笑うかもしれない。あんなに良い子だったのに、なんて反吐が出るような言葉を黒い服に乗せて、迷いもなく灰にするだろう。――――でも少なくとも、彼女は。……彼女だけは。

「沈んでいく夕日も、きれいなものね」

赤い夕日がゆっくりゆっくりと、けれど確実に沈んでいく。暗闇に溶け込んでいく。今日もおつかれさま、また明日ねと手を振りながら。多くの人々を見守りながら。

「座り込んだらきたないわよ」
「せ、洗濯したらとれる、もの……」
「ふうん」

彼女は興味もなさげにいい放って、自分との距離を縮めていく。

「あまり泣いたら、不細工な顔が余計に不細工になってしまうわ」
「ちょ、ちょっともうすこし、おぶらーとに、つつんで……」
「あらごめんなさい、本当のことをいったらいけなかったわね」
「傷をえぐってますおねえさん……」

次から次へと溢れる涙はどうしてなのか、自分でもわからなかった。悲しさとか、苦しさとか、怖さとか、切なさとか、嬉しさとか。色々な感情がぐちゃぐちゃに混ざって、言葉にできなくて、自分でもばかみたいに泣きじゃくった。服の袖でふいたら鼻水がついてしまって、彼女がその光景に眉をひそめていたけれど、ただただ子どものように泣いた。

生きることは、辛かった。死ぬよりもずっとずっと怖かった。なのに今の自分は座り込んでしまったまま、立ち上がる気力も飛び降りる気力もない。ここから飛び降りたら楽になれると知っていても、体が拒否するのだ。

もう一度下を見るのはこわかった。……とてもとても、こわかったのだ。

「はい」

彼女が差し出してきたハンカチは見るからにブランドもので、香水をつけているのかいい香りもする。汚してしまうわけにもいかず、いらないと断ったらむりやり顔に押し付けられた。なかなかに強引な人だと思った。

「ねえ」
「なあに」
「貴方がいなくなったら、あたしが泣いてあげるね」
「ふふ、素敵な愛の告白ね」

それは青春と呼ぶには薄暗すぎて、宝物と呼ぶには濁りすぎていたけれど、彼女と笑いあった日は確かに色づいていた。

◇◇◇

ひらりひらりと、桜の花びらが散っていく。人々の心を和ませた花は風に流され、人に踏まれ、やがては誰の心にも残らず消えていくのだろう。次は向日葵が太陽に恋焦がれて大輪の花を咲かし、秋になればコスモスが一面を染め、冬になればクリスマスローズが食卓を飾る。そうして一年がめぐり、また桜が咲き誇るのだ。

「よく、がんばったね」

あの日彼女と出会ったマンションの屋上で、一人つぶやく。聞いてくれる人も、そうねと返してくれる人もいない。冬は越せないだろうといわれていた彼女は、精一杯に運命に抗い、先日静かに息を引き取った。短すぎる生涯だった。

「ねえ、あたし知ってるよ。あの日本当に消えたかったのは、貴方の方だったんだよね」

何本もの点滴を抜いて看護師の目を欺いて病院を抜け出したのだと、あとになって耳にした。彼女がいった言葉はすべて、彼女自身に跳ね返るものだったのだ。それでも最期まで戦い続けた彼女は、強い人だったのだと思う。

ポケットの中に眠る携帯は、あの日とった夕焼けが待ち受けに設定されている。あなた写真撮るのへたくそね、と彼女に笑われた一枚だ。

「おやすみなさい」

彼女がすきだといった桜の花びらと共に、涙も届けばいい。いつかまた、会う日まで。