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魔王と十の蝋燭

魔王。それは魔を統べる者。残虐の限りを尽くし、人々に恐怖の対象として扱われた者。魔族は王に心酔し、崇め、己の命を捧げた。

「この子の命だけはどうか……っ、どうか、助けてください……!! 私の事は好きにしてくださってかまいませんから……! どうか……!!」

顔を恐怖に染めた女性は幼子を必死に抱きしめながら、椅子にゆったりと座って自分を見下ろしている魔王に懇願する。何度も、何度も。ただどうか、子供の命だけは助けてほしいと。

「貴様、人間風情が魔王様に命乞いするなどと恐れ多いと知れ! その口、使えなくしてやろうか」
「良いじゃないか。幼い娘を守ろうとする母親の麗しき愛。私はそういうのは嫌いではないよ」
「で、では……!」

暗く沈んでいた女性の瞳に、僅かな希望の光が宿る。そんな彼女を見た魔王は、愉快そうに口角を吊り上げた。

「そうだね、何がいいだろう。三回まわってワンというのがそちらの流行らしいね? ああでもそのままじゃ捻りがないな。ワンワン吼えながら延々と犯されるというのはどうだい」
「え……っ」
「おや、何でもすると言っただろう? あれは嘘だったのかな」

女性ははっ、とした表情をすると、一度大きく唾を飲み込む。乱暴にしないよう注意しながら娘を床に寝かせ、自身は四つんばいになった。足がもつれて上手く回れず、腕に力が入らないせいで支えきれず、たっぷりと時間をかけて二回まわった頃「後一回だね」とやけに優しい声が頭上から降ってきた。およそこの場には不釣合いな、どこまでも穏やかな声音。それがまた余計に不気味で、最後の一回をますます遅れさせる。はやくしなくては、と焦れば焦るほど、足は進まない。

じっと見られているのが嫌でも分かる。続きを待たれているのが伝わってくる。これは、魔族の彼らにとってはショーなのだ。人間側の都合など一切関係はない。だから女性も従うしかなかった。涙で濡れた視界に最愛の娘の姿が映り、この子と一緒に帰らなくては、と決意を強くした。

「わ、わ、わ……っわん」

屈辱、なんて言葉で簡単に済ませられるものではなかった。次から次へと勝手に溢れてくる涙は、魔王の姿を霞ませてしまう。でもこうするしか助かる道がないのなら、何にでも縋る覚悟だった。

「素敵だね。犬という生き物はあまり好きではなかったのだけど、飼ってみるのもいいかもしれないな」

ぱちぱちと、白く華奢な手で拍手をされる。犬扱いをされ、苛立ちも湧いた。ああ自分の人間の尊厳は失われてしまったのだと、足元が崩れ落ちそうにもなった。だが、これで帰られるのなら安いものだと思った。例え今死ぬ思いをしても、いっそ殺してくれとすら思っても、帰れさえすれば娘と夫と幸せな生活が送れるのだ。いつものように、そう、皆が笑顔の家で――

「……っぁっ……?」

何が起きたのか、一瞬わからなかった。魔王が左手で風を切ったのまでは、覚えている。けれどその後、一体なにが、なにが。

「い……いやああああああああっ!!」

腕に抱き直していたはずの我が子の頭が、ごろりと転がり落ちる。勢いよく噴出した鮮血が女性の顔を汚し、涙と、鼻水と、涎と、ありとあらゆる液体と混ざっていく。錯乱し、掻き毟られた頬からは血が滲んだが、もう女性のものなのか子のものなのか判断がつかなかった。

「ああ、愛らしい顔をしているねえ。あなたが守ろうとしたのも分かるよ。ただただ愛おしかったんだね」

いつ間にか子の頭は魔王の手の中にあり、魔王は慈愛に溢れた手つきで髪を撫でる。壊れ物を扱うかのようにそっと、やさしく。子を大切にする母のようにやさしくやさしく。

「大きな瞳をくり貫いて、代わりに宝石を嵌めたらもっと輝くかな。何がいいだろう。海を閉じ込めたサファイア? 百人の血を吸ったガーネット? 涙で作られたパール? ああ、エメラルドもいいね」

まるで結婚指輪の宝石を選ぶ女性にも似た風に悩みながら、子の眼球をふたつ、いとも容易く取り出す。喉が枯れそうなまでの女性の叫びが一際大きくなったが、魔王の興奮を誘うだけだった。

「希望が一瞬にして絶望に染まる姿は、何度見ても飽きないよ」

青く長い舌で、ねっとりと眼球を舐める。甘い甘い、極上の味がした。

「ねえ、あなたは何の石が好きだい?」
「ぁ、あ、あ、あ……っ」
「うん? 聞こえないよ。ああそういえば、この子のためなら何でも出来るのだよね。じゃああなたの目をもらおうか。うん、そうしよう」

その口ぶりは、教師が生徒に言い聞かせるかのようだった。内容とはあまりにも乖離しているからこそ際立つ静かな狂気が、場を支配する。助けてくれる人など、居はしない。誰もがにやにやと笑って女性を見ているだけだ。

「た、たすけ……っ、かえ、かえっかえしっ」
「あはは。ちゃんと言えていないよ。おねだりするならね、もっと可愛くしなきゃ」
「かえ、かえしてっ!! その子をかえしてええええ!!」
「うん、よく出来ました。良い子だから、叶えてあげる」

子の眼球を女性の傍に放り投げる。ごろごろと転がっていくそれは、もはやただのパーツに過ぎなかった。言葉を失った女性に近付く途中でぐちゃり、と音を立てたが魔王は気にも留めない。気にかける事があるとするのなら、靴が汚れてしまった、程度のものだった。

「きれいだね」

女性の顔に指を伸ばし、目尻に溜まっていた涙を拭ってやる。それから、黒くて長い爪を無造作に目の中に突っ込んだ。

「……ぃ……っ!!」

強烈な痛みが、女性を襲う。例えるならそれは、あつあつに沸騰した湯をぶちまけられたような、一万本の針を同じところに刺されたかのような、この世のものとは到底思えないもの。何が何だか分からなくて、どうして自分がこんな痛い思いをしなければいけないのかとそればかりが頭に浮かぶ。ぐぐっと指を差し込んで眼球を抉り取ろうとする魔王の腕を止めさせる事も出来ず、ただ成すがままに左目を取られた。声さえ出せない地獄の中、右目も抉り取られる。――――目に焼き付くほど鮮烈な赤髪を靡かせる魔王は、今まで見てきた誰よりも美しい顔で微笑んでいた。

「ほら、返してあげる。ああでも、もう見えないよね」

女性の目を嵌めた子の頭を、再び胸に抱かせる。返事はなかった。

「ふむ、呆気ないな。飼うにしても、もう少ししぶといのにしなくては。シュナイゼル、後はお前にあげる」
「至極光栄にございます」
「私には死体を犯す趣味はないからね。そんなにいいのかい?」
「はい、最高でございます。ぐちゃぐちゃになった体中に口付けし、冷たい体に私の熱を放つのはこれ以上ない至福の時です」
「ああいい、詳細はいらない。気が済んだらダレルに渡しておあげ」
「ヒヒッ。子を一人産んでいるとはいえ、肉の詰まった良い体ですからなぁ。さぞ美味でしょうな。下手な味付けはせず、そのままにするか否か……悩みますなぁ」

愉しげに語る部下達を眺めながら、魔王はくくっと喉を鳴らす。いつまでもいつまでもこんな日々が続くのだと、彼女は信じて疑っていなかった。

あの日、勇者が魔王を倒すまでは。

◇◇◇

「ぼくがわかるかな? お父さんだよー」

誰かが、自分に向かって話しかけている。だが、自分に父などいない。魔族は母胎を必要とする人間とは違い、負の感情が強く集まる場所で自然と生まれてくるのだ。この無礼者は誰だと重たい瞼を開け、顔を確かめる。

「わあ、鮮やかな紫の瞳だね。エイダそっくりだ。エイダ、みえるかい? ぼく達の娘だよ」

生まれたばかりの娘を腕に抱いた男は、眠り続ける妻に話しかける。だが彼女が答える事は永遠になく、男は寂しげに目を伏せた。

「エイダ、この子はぼくが立派に育ててみせるから。だから安心してね」

自身の命と引き換えに娘を産んだ母親に誓う父親。傍から見れば、さぞお涙ちょうだいな光景な事だろう。状況を把握してしまった娘の心情など、知る人は誰もいないのだから。

――――何故お前が死ななかったんだ、憎き勇者め!

魔王の心からの叫びは泣き声となり、「いい泣きっぷりだね」と勇者を喜ばせた。

自分はどうやら勇者の娘として生まれ変わってしまったらしい、と悟ってしまった魔王はこれ幸いと暗殺計画を練った。姿形は娘ならば、勇者も油断するだろうと読んだのだ。さっさと殺して、こんな場所から逃げよう。一分一秒たりとも勇者の顔など見たくもない。だがしかし、その計画は難航する事になる。

「ソフィアちゃん、おむつ変えますね〜」

勇者は上機嫌で娘のおむつを変えていく。触るな! と跳ね返してやりたかったが、ぷにっとした小さな手足をばたつかせたところで相手にはじゃれているようにしか取られない。案の定「ちょっとだけ大人しくしててねー」なんて宥められてしまった。文句を言ってやりたくても口から出ていくのは、「あうあう」といった言葉にもならない声だけ。人間の体の、なんと不便な事か。おまけに、魔力も一切ない。仮にも勇者の娘なのだから何らかの特典があってもいいと思うのだが、残念ながら極一般的な人間の体であるようだった。そのせいで、かつて自分を殺した男に世話をされるというふざけた現状に甘んじる事しか出来ない。

「はいソフィアちゃん、ごはんだよ〜」

彼は子煩悩だった。鬱陶しいほど娘の傍にいてせっせと面倒を見た。魔王が勇者にミルクをもらうなんて面目丸潰れもいいところだったが、人間は食事を取らないとすぐに死ぬと知っていたので――過去に何度も試したからだ――ひたすら我慢して飲んだ。日々溜まっていくストレスを泣く以外では発散出来ず、そんな自分に余計に腹が立った。以前の自分なら、人間を虐める事ですっきりしていたというのに。

「シチューを作りすぎてしまいましたので、持ってきましたわ。よろしければお召し上がりください」
「いつもありがとう。わあ、いい香り。流石レイラ、とっても美味しそうだね」
「い、いえ……このくらいは女の嗜みですわ」

ベビーベッドの横で繰り広げられる会話を盗み聞きする。毎日毎日よく飽きないな、と思いながら。

夕食を作りすぎてしまったから、野菜を沢山もらったから、ソフィアちゃんによく似合う帽子を見つけたから。何かと理由をつけては訪れる女性は、魔王討伐にも加わっていた勇者の仲間だ。少々記憶が曖昧だが、確か神官だったはずである。神聖魔法が中々に厄介だった、と思い出して、忌々しさが蘇ってきた。

百年に一度使い手が現れるという、伝説の聖剣に選ばれた勇者。勇者の幼馴染の武道家。勇者を補佐する神官。勇者が裏切らないよう監視する王子。彼らはたった四人で魔王城へと乗り込み、無事魔王を倒した後に勇者と幼馴染は結婚。数年後に、待望の娘を授かった。しかし呪いをかけられていた彼女の寿命は短く、娘を産むと同時に力尽きてしまう。勇者に密かに想いを寄せていた神官は、最愛の人を亡くした彼を放っておけずに健気にも世話を焼いている……という経緯らしかった。滑稽なのは、あからさまな好意に勇者が全く気付いていない事か。彼らの事情など別に知りたくもなかったのだが、他にする事がないのだから仕方ない。何せ、寝るか食べるかどちらかの生活だ。

(まあ、その呪いをかけたのは私だったのだけどね)
命が尽きる間際、最後の力を振り絞って使った魔法。憤慨、憎悪、殺意、全ての感情を込めて放ったそれは、元々は勇者に向かっていたはずだった。だが幼馴染の女性が庇ったため、彼女にかかってしまったのである。

(……もしや私がこうして生まれてきたのは、彼女に私の魔力の痕跡があったからなのかな)
もしそうなら、彼女にはお礼を言わなければいけないのかもしれない。おかげで、復讐の機会が与えられたのだから。絶対に、絶対に成し遂げてみせる。

「おとうたま、おしょくじができたのです」

彼がわざわざ作ってくれた木の踏み台を降りて、呼びかける。

「ありがとう、ソフィア。ああ、すごくいい香りだね。きみはきっと素晴らしいお嫁さんになるよ」
「おせじはいいのです。さめちゃいます」
「あ、ごめんね。じゃあ頂くよ」
「あい」

魔族は食事しなくても生きていけたために料理などした事もなかったが、いざやってみると我ながら上手いものである。特に子羊の肉を煮込んだシチューは、お店を開けると絶賛の嵐だ。勇者もすっかり好物になっている。

(違う違う、私は何をやっているのかな)
彼の娘として生を受けてしまってから早四年。まだまだ拙いながらも言葉を発せられるようになり、動き回れるようにもなった。しかし腕力や体力が全く足りず、憎き勇者を殺すには後数年はかかるだろうと思われた。となると当たり前ながら、その日まで生き続けなければならない。そのためには、一つの問題があったのだ。

「ああ、ほかほかの料理が出てくるっていいなあ。ぼくもだけど、こればっかりはエイダも苦手な分野だったからなあ」

そう、この勇者、料理がからっきし駄目だった。どれほど酷いかというと、何度か本気で生死の堺を彷徨ったほどだ。一種の虐待である。このままではまずいと子供用の包丁を買わせ、レシピを子供でも読めるよう書かせ、代わりにキッチンに立つようになったのは極自然の成り行きといえよう。彼の料理の腕が上がるのを待つより、自分で作ってしまった方が確実だったのである。

(家政婦でも雇ってくれれば楽なのだけどね)
世界を救ったとされる英雄なのだから贅沢な暮らしも約束されていただろうに、彼はそうしなかった。王都から遠く離れた辺境の地に住み、素性は隠して自警団に参加している。よく理解出来ない思考だ。使える力は使ってしまえばいいし、貢いでくれるなら遠慮なく受け取ればいいのだ。

「今日もありがとう、ソフィア」

実態を知る事なく、純粋無垢な娘だと信じて疑っていない勇者。だからいつものように魔王の頭をくしゃりと撫でる。娘を想う父親として。始めの頃は叫びそうになったが、最近になってようやく耐えられるようになってきた。内心では罵詈暴言を積み重ねているし、後でこれでもかというくらいに洗ってはいるけれども。

彼には、娘としての愛情をたっぷり注いでもらわなければならない。深い絆であればあるほど裏切られた時の絶望感が増すのだから。

「わたちのほうこそ、ありがとうです。おとうたま」

そのためなら、心優しい娘を完璧に演じきってみよう。何を犠牲にしてでも。

「ソフィアちゃん、これ着てみて? きっとすごく似合うわ」

ひっらひらふりふりの服に囲まれた店で、レイラは楽しそうに服を選ぶ。ソフィアちゃんの七歳のお誕生日に何かプレゼントさせてほしいの、と頼まれて渋々ついてきた結果だ。今すぐにでも帰りたかったが、笑顔を貼り付けて耐える。

「ありがとうございます、レイラさん。着てみますね」

服を受け取り、試着室に入っていく。勇者を落とせないのならまずは娘からとでも考えたのか、近頃こうして誘われる回数が増えていた。あわよくば、という執念深さは正直なところ嫌いではないものの、あの勇者のどこがいいのだろうと思う。人間の中では整った顔立ちで、勇者だけあって強くて、困っている人がいれば迷わず助け、町の人々からの信頼も厚い。だが、それのどこに惹かれるというのだ。薄ら寒い偽善ではないか。シュナイゼルの方がよっぽどいい男だった。

(ああ、シュナイゼル。お前もどこかで生まれ変わっていたらいいのに)
自分を慕ってくれていた側近達は皆殺されてしまった。どうか勇者を倒してくださいと震える声で言い残して。なのに、彼らの願いに応える事は叶わなかった。きっと恨んでいるだろう。こんな者に従っていたのかと失望しただろう。それでもいいから、……もう一度彼らに会いたい。

「ソフィアちゃん、着てみた?」

はっ、と我に返る。まだ感傷に浸っている場合ではない。彼らへの謝罪は、目的が果たされてからだ。後何年、かかったとしても。

勇者は流石に勇者だけあって、隙が少なかった。普段は娘にでれでれのどうしようもない父親に見えるのに、背後に誰かが立つとすぐに反応するのである。寝ている時ですらも気を緩めず、ほんの僅かな物音で目が覚める。腕利きの暗殺者でさえ困難を極めるだろう難易度の中、いくら娘でも達成するのは容易ではないと予想された。だから彼に「お父様のような立派な剣士になりたいです」「人の役に立ちたいんです」と吐き気のする台詞で精一杯媚び――実際にその日の夜は吐いた――訓練をつけてもらうようになった。腕立て伏せ、腹筋、ランニングなど、基礎練だって欠かしてはいない。魔王であった頃は生まれつき膨大な力を宿していたから、努力するなどとは初めての経験だった。意外にも、体を動かすのはそう嫌ではなかった。

「わあ、よく似合ってるね。とってもかわいいよ」

家に帰ると「着て見せて?」とお願いされ、嫌々ながらも着替えてみせる。こうやって着せ替え人形にされるのはよくある事だが、魔王にしてみれば不本意極まりなかった。何が悲しくて、こんなちんちくりんな姿でふりふりリボンだらけの服を身につけなくてはいけないのか。以前のナイスバディな自分なら、お洒落するのも楽しかったものだけれど。

「ソフィアちゃんは可愛いし、気立ても良いし、強いし、将来はきっともてもてだね。きみが選ぶのはどんな人かなあ。お父さん今までお世話になりましたなんて挨拶されちゃったりして……ああやだやだっ想像したくないっ。ソフィアちゃん、お父さんと結婚しようよーっ」
「お父様、少なくとも後十年は先の話です。心配するのが早いですよ」
「十年なんてあっという間だよぉぉ……。だってきみが生まれてきてくれてからもう七年も経つんだよ!」

彼からしてみれば短い時間だったのかもしれない。だが魔王にしてみれば拷問にも等しい長い長い時間だった。毎日毎日いつか必ず殺してやると考えながら生きてきた。培ってきた演技力で表情に出したりはしないが。

「でも本当におおきくなったねえ。お母さんそっくりだ」

哀愁混じりに呟かれ、なんと返すべきなのか言葉に詰まってしまう。その意味を、予兆を、敢えて気付かない振りをした。そうしなければ、いけなかった。

どれほど勇者が憎くても生きている限り朝日は上るもので、一日、また一日と過ぎていく。チャンスを狙い続けて、十年目の誕生日を迎えた。

「ソフィアちゃん、ぼくも手伝うよ」

無心で生クリームを泡立てていると、妙に張り切った彼が隣に並ぶ。目玉焼きさえ満足に作れない男がお菓子作りなど無謀にもほどがあるというものだ。やんわり断ろうとすると、彼は苦笑いを浮かべながら袖をめくった。

「大丈夫。もうずっと前からレイラに教わってたんだ。破滅的だって散々呆れられながらね。とはいってもまだまだ修行中の身だけど、手伝いくらいはできるよ。……多分」
「そうですか……? ではこの続きをお任せしてもよろしいですか」
「まっかせて!」

半信半疑ながらも、ボウルと泡立て器を彼に渡す。目に見えて力んだのが分かって、慌てて口を挟んだ。

「お父様、そんなに力を入れたら飛び散ってしまいますよ」
「う、わ、わかった」

本当に大丈夫だろうかと心配すつつ、他の過程を進めていく。少し目を離した隙に彼は何故か見事なメレンゲを作ってしまい、結局泡立て直しになったりもしたが。

「こういうの、たのしいね。親子二人の共同作業!」

なんて笑うものだから、怒るに怒れなかった。

「ねえお父様。お父様は再婚しないのですか?」

綺麗に焼けたスポンジにクリームをぺたぺたと塗りながら、何気なく尋ねる。当然ながら、興味があったわけではない。ただ他に話題が思いつかなかっただけだ。

「うーん、ソフィアちゃんはお母さんがほしい?」
「いえ、いりませんよ」

充分にめんどくさいのに、更に家族ごっこをするのはまっぴらごめんだ。もう一人増えたらストレスで爆発する自信がある。だが彼は何を勘違いしたのか「よかった」とひどく安堵したように息を吐き出した。

「ほしいってねだられたらどうしようかと思っちゃった。ごめんね、ぼくにとっての奥さんはエイダだけなんだ。死ぬまで、彼女だけを愛してる」

人はそれを、一途な愛だと褒めるのだろう。自分もそんな風に想ってくれる相手に出会いたいと憧れるのだろう。実際に、王都の方では美しい恋物語として広まっているらしい。と、レイラが悲しそうに語っていた。もし、もしも。自分も人であったのなら。母を愛してくれてありがとうと感謝出来たのだろうか。考えたって、どうにもならないけれど。

「ああそうだ、彼女が大事にしまってたお皿があるんだよ。ええとこのあたりに……」

どこかな、高い位置にある棚を漁る。――――時が来た、と誰かが低く囁くのを聞いた。

「お父様」
「ん? なんだ、い……っ」

無防備にもこちらを見た勇者の腹部に、音も立てず引き出しから取り出したナイフを突き刺す。ほんの僅かな迷いも躊躇いもなく、あらん限りの力で。

「さようなら、哀れな勇者。私は貴方がこの世で一番嫌いだよ」

どしゃりと音を立てて彼が後ろに倒れていくのを、魔王は静かに見下ろしていた。

「お前の頭には今何が巡っているのだろうね。戸惑い? 疑問? 悲観? 最愛の娘に殺される気分はどうだい」

小さな足で、彼の足をぐりぐりと踏みつける。ぐうっ、と呻き声が届き、愉快で愉快でたまらなかった。長い年月をかけて、我慢し続けて、やっとかなったのだ! これを楽しまないで何を楽しむというのか! ようやく、自分も魔族も報われる! ああ、なんて素晴らしい瞬間なのだろう。切り取って何度でも繰り返したい。間違いなく、人生で最高の日だ。込み上げてくる笑いを抑える事など不可能だった。

「……だ、ね」
「うん? 聞こえないよ。もっと大きな声で喋ってくれなきゃ。気力が残っているなら、だけどね」

二度と聞きたくはない、と日々思っていた勇者の声も、今ばかりは聞きたい。この男は、最期に何を言うのだろう。考えるだけでぞくぞくする。さて、どう調理してやろうか。最愛の娘の姿で、一本一本指を切り落とそうか。いやその前に爪の間に針を刺してから剥ぐ方がいいかもしれない。簡単には、殺してはやらない。さっさと死んだ方がましだというところまで追い詰めてやると心に決めていた。

「ぼくは、きみの父親にはなれなかった、んだね……」

だけど。

「なに、を……」

ちちおやに、なれなかった? 男は、そう言ったのか。なぜ、どうして、どうして。どういう意味なのか、続きを聞かなければならない。なのに、聞くなとけたたましい警告音が頭の中で鳴り響く。ばくばくと心臓がうるさい。手にかいた汗が気持ち悪い。喉が渇く。視界がちかちかして、上下がひっくり返る。

いわないで、決していわないで。ねえ、あの日々が少しでも真実であったとするのなら――――

「きみのことはしってたよ、もうずっと前から。夢でうなされたきみは、魔族達の名を何度も呼びながら謝っていたから」

状況とはあまりに不釣合いな落ち着いた声は、それが嘘ではない事を証明していた。

「はは……っ」
「ソフィア?」
「ははははははははははははははははっ!!!」

なんて事はない、自分はこの男の手のひらの上で踊らされていただけだったのだ! 朝からお弁当を作ってピクニックに行った日も、沢山の花を持って母の墓参りに行った日も、鼻を赤くしながら雪だるまを作った日も、その後二人して風邪を引いたのも、すべてすべて!

「ぐ……っ」
「一人のうのうと高みの見物か! 貴様からすれば私はさぞ滑稽だっただろうな! ……馬鹿にするのもいい加減にしろっ!!」

ナイフを勢いよく引き抜き、腕に、手に、足に、無我夢中で刺し続ける。なりふり構ってはいられなかった。生き永らえさせるなんて考えは、どこにもなかった。むしゃくしゃする気持ちをどうにかしたい、それだけだった。

「ソフィア……」
「人間の娘につけた名で私を呼ぶな!!」

自分は魔の頂点に立つ魔王だ。ソフィアなどという名前では、ない。

「じゃあ、魔王。そんなに怒らないで、すこしだけぼくの話を聞いてよ。ほら、死にゆく者への最後の情けだと思って……」

どうせ放っておいてもそのうち死ぬだろうと、ナイフから手を離す。この男が治癒魔法を使えないのは承知の上だった。はあはあと荒い息を繰り返す彼の横に座り込み、続きを待つ。

「まず誤解を解いておきたいんだけど、きみをばかにした事なんてないよ。一生懸命でかわいいなって思ってたしね」
「そういう態度の事を指しているのだけどね」
「え、そうなの? 困ったなあ、治し方がわかんないや」

毒のない顔でへらりと笑う。だからそういう態度だ、と再度指摘しようとして、キリがないなと諦めた。死にかけでも全くぶれないのは、大した精神力だ。

「なんだかうれしいね。初めて、きみの心に触れてる気がする」
「お前を殺してやりたいとしか考えていないよ」
「それでも。ああ、ここにエイダもいたらよかったのになあ」

こいつ頭おかしいんじゃないのか、と真剣に思った。それこそ数え切れないほどの人間を殺してきたが、彼ほど穏やかに死を受け入れている奴は終ぞ見た事がない。自分の命のために仲間を差し出す奴だって沢山いた。いつかの母親のように、子供だけはどうかと懇願した女もいた。だから、楽しかったのに。

「あのね、魔王。ぼくは元々きみが嫌いだったわけじゃない。だってきみにとってはそれが当たり前で常識で、自分達の世界で生きていただけでしょう。ぼくがきみを討ったのは、聖剣がぼくを選んだから」

人々を救うためだけに、勇者は立ち上がった。期待を一心に背負って、絶対に裏切らないように監視までつけられて。力及ばず消えていった命があった時、全ての責任は勇者に擦り付けられもした。それでも折れずに己の命を懸けられたのは、彼もまたどこか歪んでいるからなのかもしれなかった。

「お前、私が憎くはないというのか」
「どうして?」
「エイダという女は、私の呪いによって死んだんだよ。恨むのが筋書き通りというものだろう」
「ううん、感謝してるよ。きみのおかげで、満ち足りた毎日だった」

手を、と囁かれ、なんとなく差し出す。すると、ほとんど力も入らないだろう体で弱々しく握られた。……体温が高いはずの彼からは、ひんやりとした温度しか伝わってこなかった。

「家族が欲しかったぼくのわがままに付き合ってくれてありがとう。ソフィア、ぼくの愛しい娘」
「だから……っ、」
「さようなら」

握られていた手が、ゆっくりと離れていく。重力に従って、床に落ちていく。待って、と止めたところで、時は無常だ。

「お前の言うソフィアなど、存在しないというのに……っ!」

愛しい娘、と彼は言った。幸せな毎日だったのだと満足して逝った。それが仮初に過ぎないと、最初から知っていたのに。生まれたのが魔王ではなかったのなら、彼は本当の娘に惜しみない愛情を注げたはずだったのに。ピクニックも雪だるまもケーキ作りも、魔王の位置には彼の娘がいたはずだった。今頃は妻と娘と三人で、真に欲しかったものを手に入れられていただろう。

奪ってしまったのは、他ならない自分だ。

「ごめ、ん……っ」

自分の行いで罪悪感を抱くのは、生まれて初めてだ。許しを請うなどありえないと思っていた。もう二度と戻ってはこない者に涙を流すなど無駄なだけだと、思っていた。なあ勇者、お前はどうして笑っていられたんだ。

「ソフィアでいられたら、よかったのにね」

ナイフを手に取り、彼の心臓めがけて刺す。これで、おわり。

「私の心は、仲間達といたあの城にしかないよ」

勇者と魔王の道は、決して交わりはしない。

家に訪れたレイラによって事切れた勇者が発見されたのは、丸一日後の事だった。部屋が荒らされた形跡も抵抗の後もなかった事から、顔見知りによる犯行だと推測された。すぐにレイラと王子が疑われたが、ありえないと一蹴され、真相は謎のままである。彼の一人娘は、どれほど探してもとうとう見つからなかった。

キッチンの状態からケーキを作りかけていたものと思われるが、不思議な事にケーキはどこにもなく、火を灯されなかった十本の蝋燭だけが虚しく残っていた。